長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ
そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。
いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時
慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。
”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。
インタビュイープロフィール
お名前:葛西シンタロウさん
職業:会社員
がん種:精巣腫瘍
ステージ:3
治療内容:手術(原発巣摘出)→
BEP療法→手術(転移巣摘出)
21歳で精巣腫瘍に罹患。手術とBEP療法で治療。治療後に総合商社入社。情報産業事業部門に在籍。テレビ通販事業や衛星放送事業に従事した後、労働組合専従(中央執行副委員長)を務め、現在はサイバーセキュリティー事業を担当。AYAがん経験者でありキャリアコンサルタント
目次
葛西さんのがんストーリー
―いくつのときにがんに?
21歳の時に、精巣腫瘍のⅢCという最大のグレードと診断されました。左側が原発巣で倍くらいの大きさになっていましたが最初は気づかず、左後腹部のリンパ節に転移していた腫瘍がみかん大くらいになっていたのと、肝臓に5cmくらいの遠隔転移が見つかりました。
―どうやって見つかったのですか?
ある日突然腹痛と吐き気が襲ってきて、友達に救急車を呼んでもらい近くの大学病院に搬送されました。そこでエコーやCTを撮ったのですが、なかなか説明がなくて2回目は造影剤を入れて撮りますと言われて「何かあったのかな?もしかしてこれってドラマのがんのシーンと同じやつじゃないか?」と思っていたら正にがんでした。ただ、検査中原因がわかるまで痛み止めを打ってくれなかったので、とても辛かったです。
実はその半年くらい前から少し腫れているな~と気づいてはいたので、近くのクリニックに2回くらい行っていました。でもその時のおじいちゃん先生は、僕が大学生だったということもあり「あまり遊んじゃだめだぞ~」と抗生剤を処方されただけだったのです(笑)「誤診だったか~」とあとで悲しくなりましたね。
―その後の治療は?
診断確定の2日後には手術でした。手術自体は1時間くらいで脚の付け根から原発巣を取るもので意外と簡単でした。ただその後も忙しく、そのあとすぐに妊孕性の問題があることが初めてわかって、手術翌日に痛みを堪えながら近くの産婦人科にいって精子を採取し、4日目から化学療法を始めました。BEP療法で、週5日投与で始めたのですが、僕の場合3クール目で腫瘍マーカーが正常化したので、4クール目は予防的な感じでした。腫瘍が小さくなった3か月目くらいに開腹手術をしたのですが、リンパ節のほうが大変な細かい手術で13時間かかりました。その後生検で転移も認められず無事退院となりました。その間も免疫に問題なければ帰宅して普通に友達と会ったりして生活していました。
―おひとりで生活していたのですか?
学生なので下宿だったのですが、その時は母が来てくれてしばらく一緒に住んでいました。ありがたかったですね。でも、お互い疲れてくると喧嘩になったりすることもあり、今思えばそういう時の家族の精神的なサポートも大切なのだな~と感じました。母親もⅢCだから助からないと思っていた時期があったようです。当時は自分が一番辛いと思っていましたが、周囲の人たちも大変だったと思います。
―手術に不安はなかったですか?
僕とは相性が良かったのですが、実は、主治医がいい意味でターミネーターみたいな人でサイボーグっぽかったので、淡々と正直に話してくれるんですよ。そもそも救急車で運ばれた2時間後に「もう言っちゃうけどがんだから」って。「僕死んじゃうんですか」って聞いたら「う~ん、転移もしているから5分5分かな」とか。リアルな告知でした(笑)。でもその後も「脳や肺に転移はしていないみたいだね」とすべて話してくれたので信頼はできましたね。専門が小児科&泌尿器科の先生だったのですが、学生だった僕が社会に復帰したことをとても喜んでくれたことを覚えています。
役に立ちたいという思いがモチベーションの源
―これまでモチベーションの維持はどうされていましたか?
大学では放射性物理を学んでいて、CTを作る会社や原発関連など重工業系の就職が多い学部だったので、当時はエネルギーを通じて日本の役に立ちたいと思っていました。でもがんになって「やっぱりエネルギーより健康だよね」と思ったのと、誤診などを減らす為にも、もっと診断に役立つシステムを作れないかという思いで就職先を色々考えました。でも、トータルで解決できる会社がなかなか思い浮かばなくて、手広く勉強できる商社に入りました。それから気づいたら10年経っていた という感じです。なので、もともとあった役に立ちたいという思いに、がん経験が重なったことでモチベーションが続いてきたのかなと思います。
―がんになった時奥様は?
妻とは登山サークルで出会いました。がんになった時、彼女は京都の大学院に行くと決まっていたのですが、引っ越しを早めて京都に来てくれたので、がんになっても会えましたし支えてもらいました。社会人になっても、治ってまだ2年目だったので、5年ほど待ってその後しばらくして結婚しました。それから不妊治療をしたのですが、病院では女性側の大変さを感じましたし、子供が生まれた人の事を素直に喜べない自分がいた時もありました。彼女のやさしさと理解で乗り切れたのだと思います。
最終面接より診察を優先したら
―就職活動するときはがんのことを話していたのですか?
そんなには言っていませんでした。ただ、今の会社を選んだ理由の一つとして、最終面接日に病院の診察があるから無理だと伝えたら、面接日を変えてくれたからというのがあります。それで入社しても検査に配慮してもらえると思いました。その後、内定した後にがんを伝えてないことに不安を感じ、がんの事を開示しました。そしたら「色々な仕事あるから全く問題ない」 と言ってもらえました。
―入社してから、周りの人に話しましたか?
入社した当時は治って2年目でした。まだ、3か月に一回CTと採血をしないといけない期間なので、「有給とっていいですか」と周りに聞いていました。人事からも周りに連絡が行っていましたので、仕事の配慮もいただいていました。それが5年たつと頻度が半年に一回、10年たつと一年に一回の検査になり、今は仕事のセーブもないです。周りに配慮はいただいていましたが、期待値を下げられなかったのはよかったと思います。
当たり前のことを大切にする社風
―今の会社で仕事ができている最大の要因は何でしょうか?
究極的には社風ですね。「個人の健康は大事」という、そういった当たり前のことが大切にされる会社でした。打ち合わせの日も通院予定があると変えてくれましたし、そういうのがなかったら辞めていたかもしれないです。お互い言いやすい雰囲気は必要ですし、周りの人はわからないので、本人も伝えるという歩み寄りは必要だと思います。だからもし面接で状況を話しても、全く受け入れてもらえない会社なら、転職した方がいいと思います。
―体験したことで得た気づきはどうやって社会に還元しようと思いますか?
商社からなぜがんの業界に転職しないのだろうと、自分自身葛藤したことがあります。でも広い目で見ると、僕は人や社会が前に進むのを応援したいと思っていました。だからエネルギーが足りないと思いエネルギーを選び、健康の分野が弱いと思ったからそこに従事したいと考えました。しかし今はコロナや、競争力が変わった事等により日本の産業労働構造を変えなくてはいけないと思っています。それは、もしかしたらがんより大きなことかもしれないし、その時その時で自分が問題に思うことに対処できればいいのではないかと思っています。
―がんになって気づいたことはなんですか?
僕自身がんになっても仕事や役割を欲しているので、役立つことがあれば何でも遠慮せず言ってもらいたいと思っています。だから「がんになった人にも、役立つ機会を与えてあげてください」と伝えたいです。元々人のために何かしたいという気持ちはあったのですが、がんになって、より人の役に立ちたいという気持ちが強くなりました。がんになって人の命は有限なこと、困っている人は沢山いることに気付き、以前よりも人の役に立ちたいと考えているので、出来ることは任せてほしいと思っています。キャリアコンサルタントの資格を取ったのもその一部かもしれません。
今大切にしている漢字が「進」です。武田双雲先生は「楽」という感じで4つのマトリクスに分けて「自分が楽しむこと」と「人を楽しませること」「自分が楽をすること」「人を楽にしてあげる」という4つで活動しているのを記事[1]で見て、僕は「自分自身が前に進むこと」「人が前に進む助けをすること」「世の中を前進させること」の3つの「進」をやりたいと思っています。例えばですが、一滴でがんが見つかるチップとか、電気自動車を実用化するとか、人類を前進させることにロマンを感じるのでそういったプロジェクトの一助になりたいというのと、自分が前進したいと思っている人を助けたいし、そういった人を前に進める自分になっていくのが目標です。
人事担当者と罹患者へのメッセージ
―両立支援に関わる人事、窓口担当者へのアドバイスを教えてください。
会社にもよると思いますが、社外の人を使った方がいいケースが増えてきていると思います。人事担当者がローテーションだと傾聴などの能力の問題もあるし、人事担当者が異動して、自分の上司になるかもしれない。そういった人にぶっちゃけた話はしにくいという声があります。だから人事部プロパーを作るか、社外に相談窓口を作って聞いてもらう体制を作らないと、なかなか話せないと思います。
―これから両立支援に取り組む罹患者に対してのアドバイスをお願いします。
社会に出て10年で会社もずいぶん変わりました。フリーアドレス、ポロシャツOK、チャットツール全盛になって、以前とは隔世の感があります。これから10年経つとさらに働き方って変わると思います。今は正社員と非正規という働き方がありますが、これからは働き方自体が連続的になっていくと思うんです。今は時短、今はテレワークと、その時々の働き方が出来るように、両立しやすくなる方向にゆっくりかもしれないけど向かっていると思います。だから、今のフルタイム正社員が出来なくても自分を責めないで欲しい、絶望しないで欲しいと思っています。多様な働き方が認められる世の中になって行くし、なるべきだから。だから自分を責めないで欲しい。自分に出来ることをやるしかないし、もっているリソースしか労働に転換できないのはみんな同じだから。人と比べないで、自分に与えられたものを最大限アウトプットして納得するということでしょうか。
―今の自分だからこそ、出来ることを見つけて動いていくということですか。
制約を体験していることが付加価値だと思います。がんになったことを話せるのが付加価値だし、逆にそれが強みになると思います。
AYA世代へのメッセージ
―AYA世代の人へのアドバイスは?
人と比べないことでしょうか。人生のある一部だけ切り離して比べると、あの人に比べて自分はどうだとか、自分は恵まれていないとか思うこともあるかもしれません。でも、自分にないところを比べているだけで、逆に自分が恵まれているところもあると思うので、自分自身を多面的に捉えて、ありのままの自分を認めてあげるのがいいと思います。その為に色々な人と話してみると、色々な軸が持てるし、誰一人として同じ人生は歩んでいないし、そもそも比較すらできないと気づくと思います。
貴重なお話ありがとうございました。「今の自分に出来ることをする」という葛西さんのアドバイスが参考になられた方も多いと思います。これからの葛西さんのご活躍を応援しております。
2021年12月15日
語り:葛西シンタロウ
取材:吉田ゆり
文 :小野順子
写真:ご本人提供
※本記事はがんを経験された個人の方のお話であり、治療等の条件や判断は1人1人異なります。全ての方にあてはまるものではありません。
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