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生活とがんと私 Vol.13 葛西シンタロウさん


長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。



インタビュイープロフィール



お名前:葛西シンタロウさん

職業:会社員

がん種:精巣腫瘍

ステージ:3

治療内容:手術(原発巣摘出)→

    BEP療法→手術(転移巣摘出)


 









21歳で精巣腫瘍に罹患。手術とBEP療法で治療。治療後に総合商社入社。情報産業事業部門に在籍。テレビ通販事業や衛星放送事業に従事した後、労働組合専従(中央執行副委員長)を務め、現在はサイバーセキュリティー事業を担当。AYAがん経験者でありキャリアコンサルタント

目次


・葛西さんのがんストーリー

・役に立ちたいという思いがモチベーションの源

・最終面接より診察を優先したら

・当たり前のことを大切にする社風

・人事担当者と罹患者へのメッセージ

・AYA世代へのメッセージ



葛西さんのがんストーリー


―いくつのときにがんに?


21歳の時に、精巣腫瘍のⅢCという最大のグレードと診断されました。左側が原発巣で倍くらいの大きさになっていましたが最初は気づかず、左後腹部のリンパ節に転移していた腫瘍がみかん大くらいになっていたのと、肝臓に5cmくらいの遠隔転移が見つかりました。


―どうやって見つかったのですか?


ある日突然腹痛と吐き気が襲ってきて、友達に救急車を呼んでもらい近くの大学病院に搬送されました。そこでエコーやCTを撮ったのですが、なかなか説明がなくて2回目は造影剤を入れて撮りますと言われて「何かあったのかな?もしかしてこれってドラマのがんのシーンと同じやつじゃないか?」と思っていたら正にがんでした。ただ、検査中原因がわかるまで痛み止めを打ってくれなかったので、とても辛かったです。

実はその半年くらい前から少し腫れているな~と気づいてはいたので、近くのクリニックに2回くらい行っていました。でもその時のおじいちゃん先生は、僕が大学生だったということもあり「あまり遊んじゃだめだぞ~」と抗生剤を処方されただけだったのです(笑)「誤診だったか~」とあとで悲しくなりましたね。


―その後の治療は?


診断確定の2日後には手術でした。手術自体は1時間くらいで脚の付け根から原発巣を取るもので意外と簡単でした。ただその後も忙しく、そのあとすぐに妊孕性の問題があることが初めてわかって、手術翌日に痛みを堪えながら近くの産婦人科にいって精子を採取し、4日目から化学療法を始めました。BEP療法で、週5日投与で始めたのですが、僕の場合3クール目で腫瘍マーカーが正常化したので、4クール目は予防的な感じでした。腫瘍が小さくなった3か月目くらいに開腹手術をしたのですが、リンパ節のほうが大変な細かい手術で13時間かかりました。その後生検で転移も認められず無事退院となりました。その間も免疫に問題なければ帰宅して普通に友達と会ったりして生活していました。


―おひとりで生活していたのですか?


学生なので下宿だったのですが、その時は母が来てくれてしばらく一緒に住んでいました。ありがたかったですね。でも、お互い疲れてくると喧嘩になったりすることもあり、今思えばそういう時の家族の精神的なサポートも大切なのだな~と感じました。母親もⅢCだから助からないと思っていた時期があったようです。当時は自分が一番辛いと思っていましたが、周囲の人たちも大変だったと思います。


―手術に不安はなかったですか?


僕とは相性が良かったのですが、実は、主治医がいい意味でターミネーターみたいな人でサイボーグっぽかったので、淡々と正直に話してくれるんですよ。そもそも救急車で運ばれた2時間後に「もう言っちゃうけどがんだから」って。「僕死んじゃうんですか」って聞いたら「う~ん、転移もしているから5分5分かな」とか。リアルな告知でした(笑)。でもその後も「脳や肺に転移はしていないみたいだね」とすべて話してくれたので信頼はできましたね。専門が小児科&泌尿器科の先生だったのですが、学生だった僕が社会に復帰したことをとても喜んでくれたことを覚えています。

役に立ちたいという思いがモチベーションの源


―これまでモチベーションの維持はどうされていましたか?


大学では放射性物理を学んでいて、CTを作る会社や原発関連など重工業系の就職が多い学部だったので、当時はエネルギーを通じて日本の役に立ちたいと思っていました。でもがんになって「やっぱりエネルギーより健康だよね」と思ったのと、誤診などを減らす為にも、もっと診断に役立つシステムを作れないかという思いで就職先を色々考えました。でも、トータルで解決できる会社がなかなか思い浮かばなくて、手広く勉強できる商社に入りました。それから気づいたら10年経っていた という感じです。なので、もともとあった役に立ちたいという思いに、がん経験が重なったことでモチベーションが続いてきたのかなと思います。


―がんになった時奥様は?


妻とは登山サークルで出会いました。がんになった時、彼女は京都の大学院に行くと決まっていたのですが、引っ越しを早めて京都に来てくれたので、がんになっても会えましたし支えてもらいました。社会人になっても、治ってまだ2年目だったので、5年ほど待ってその後しばらくして結婚しました。それから不妊治療をしたのですが、病院では女性側の大変さを感じましたし、子供が生まれた人の事を素直に喜べない自分がいた時もありました。彼女のやさしさと理解で乗り切れたのだと思います。



最終面接より診察を優先したら


―就職活動するときはがんのことを話していたのですか?


そんなには言っていませんでした。ただ、今の会社を選んだ理由の一つとして、最終面接日に病院の診察があるから無理だと伝えたら、面接日を変えてくれたからというのがあります。それで入社しても検査に配慮してもらえると思いました。その後、内定した後にがんを伝えてないことに不安を感じ、がんの事を開示しました。そしたら「色々な仕事あるから全く問題ない」 と言ってもらえました。


―入社してから、周りの人に話しましたか?


入社した当時は治って2年目でした。まだ、3か月に一回CTと採血をしないといけない期間なので、「有給とっていいですか」と周りに聞いていました。人事からも周りに連絡が行っていましたので、仕事の配慮もいただいていました。それが5年たつと頻度が半年に一回、10年たつと一年に一回の検査になり、今は仕事のセーブもないです。周りに配慮はいただいていましたが、期待値を下げられなかったのはよかったと思います。

当たり前のことを大切にする社風


―今の会社で仕事ができている最大の要因は何でしょうか?


究極的には社風ですね。「個人の健康は大事」という、そういった当たり前のことが大切にされる会社でした。打ち合わせの日も通院予定があると変えてくれましたし、そういうのがなかったら辞めていたかもしれないです。お互い言いやすい雰囲気は必要ですし、周りの人はわからないので、本人も伝えるという歩み寄りは必要だと思います。だからもし面接で状況を話しても、全く受け入れてもらえない会社なら、転職した方がいいと思います。


―体験したことで得た気づきはどうやって社会に還元しようと思いますか?


商社からなぜがんの業界に転職しな