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生活とがんと私 Vol.4 森田裕子さん


長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。

2020 年 9月30日

語り=森田裕子

取材=野北まどか

文 =吉田ゆり

写真=ご本人提供



インタビュイープロフィール

お名前:森田裕子さん 

職業:大学病院勤務

がん種:肺がん(肺腺がん)

ステージ:3A    

治療内容:手術→抗がん剤

休職期間:無し(退職)

再  発:腸骨・腎臓 

治療内容:放射線/分子標的薬服用

休職期間:無し(退職)


1962年生まれ。2013年、肺がんに罹患し、手術と化学放射線治療を経験。2016年に再発治療を行い、現在も分子標的薬を活用した治療を継続中。治療をしながら転職活動を行い、様々な職場と出会い働き続ける。現在も自身の経験を通しがんピアサポーターとしても活躍している。



目次


・自分の経験を伝える事の大切さ

・森田さんのがんストーリー

・がん相談支援センターとの出会い

・新たな自分の条件に合った職場探し

・再発してから変わった仕事選びの優先順位

・またまた状況が変わり仕事選びの観点が変わる

・自分の経験を伝える事の大切さ



森田さんのがんストーリー


ーどのようにしてがんが見つかったのですか


初発は2013年です。もともと糖尿病と甲状腺機能障害の持病があり定期的にかかりつけ医に通っていました。先生から「たまには肺や心電図撮ろうか」と言われ、半年前受けたがん検診で問題がなかったので断ったのですが、翌月もう一度先生から勧められて検査を受けたところ「肺に影が見える」と指摘されました。その後紹介状を書いて頂いた総合病院の呼吸器内科で診てもらいました。 最初はエキノコックスか肺がんか、判断がつきかねるという事でPET検査もしたのですが、それでもわからず生検をしました。その時も1度目は組織が取れず、2度目でなんとか取れて確定診断が下りました。かかりつけ医が肺に影を見つけた時から確定診断まで1カ月以上かかりました。


ー長かったですね。手術はすぐできたんですか


右肺下葉に約1.5㎝、1.6㎝の腫瘍が2個、リンパ節転移ありでステージ3Aでした。手術か抗がん剤治療かの境目で、呼吸器外科に紹介されました。そして「ギリギリだが何とか手術できる」と言って頂き、3月中旬に開胸手術で右肺の下葉と中葉を切除、3月末から予防的抗がん剤治療を7月まで受けました。影があると言われて手術まで2ヵ月かかりました。


ー手術からどのくらい入院されたのですか


糖尿病があったので教育入院で手術日の2日前に入院しました。退院日は迎えの関係もあり週末にしていただき丸2週間入院しました。


ーその時お仕事はどうされたのですか。


前年の2012年8月に仕事を辞めて、ハローワークの「求職者支援訓練」でパソコン関連の資格取得を目指す講座を修了し、失業給付金を受給し始めた頃でした。ちょうど入院中に、必ず窓口に行って求職活動報告をする認定日が重なっていました。なので、急いでハローワークに事情を話して認定日を変更してもらい、退院後にタクシーに乗ってハローワークに行きました。


―退院後の生活はどうされたのですか


我が家は子供がいない2人暮らしで、私が入院している間から夫は実家に帰っていました。それで私もそのまま主人の実家にお世話になりました。実は私の実家では母親が認知症の父の介護をしており、私の面倒までは見切れないと言われていました。母はその事をとても気兼ねしていました。


がん相談支援センターとの出会い


ー病気の事の相談はどうしましたか


化学療法で通院していた時は、病院のがん相談支援センターに行ってなかったんですね。入院中の病棟にポスターが貼ってあったとは思うのですが全く目に入っていませんでした。診察の時に初めて目に入り、センターの存在を知りました。でも、「相談」と書いてあると敷居が高く感じられてしまって行く気にはなれませんでした。それに、治療中はケモが終わったらすぐに帰りたかったで、治療が完了したら行っても良いかなくらいに思っていました。


ーすごくよくわかります!なんとなく最初に一歩が踏み出せないですよね。でもどうしていかれたんですか。


がん相談支援センターの相談員さんがされていたがんサロンに行ったのがきっかけでした。初めてがんサロンに参加した時は、センターの相談員さんと数人の患者さんがいたのですが、その中に肺がんの方がいらっしゃったんです。退院してから初めて自分以外の肺がん患者さんに会いました。ご年配でしたが、余命宣告を受けてから5年以上経っておられてとてもはつらつとした方でした。肺がんになってから「死」というものをイメージしていたのですが、ハッとしましたね。そしてがんサロンに新たな自分の居場所を見つけたと感じ、その相談員さんのいるセンターなら大丈夫だろうと思えたんです。


ー実際利用してみていかがでしたか


がん相談支援センターはそんなに大きなスペースではなく、相談員さんと自分だけの限られたスペースで安心感がありました。それまでは、訊きたい事があっても主治医は忙しそうな雰囲気で訊けない、痛みや辛さを訴えてもパソコンモニターを見ながら話されたりして自分の中でモヤモヤしていました。「画像では異常は無いから痛くないでしょ?」「手術もうまくいったし、胸の痛みは精神的なものじゃない?」というようなことを主治医に言われて辛かったこと等、本音を看護師でもある相談員さんに言う事で、医療者目線+寄り添いのあるアドバイスをもらえたのは嬉しかったですね。


新たな自分の条件に合った職場探し


ーその後転職活動はどうなりましたか


私が手術をした同年の2013年の4月に開設された県のがん総合相談支援センターに、抗がん剤治療が完了した後に就職の相談に行ったんですね。そこは、がんと就労の両立支援の一つとしてハローワークと連携しており、求人の情報を得ることができました。希望に合いそうな求人があると相談員さんがハローワークに連絡を入れてくれて、自分でハローワークに行き求職の手続きを進めるというものでした。

また、就職活動についてのアドバイスも、支援センターの相談員さんから頂きました。


ーどんなアドバイスを頂きましたか。

支援センターの相談員さんは、看護師や保健師でもあり、医療従事者としての視点もいれた下記の点をアドバイス頂きました。


①自分の身体を大事にして無理はしないように

②出来る事出来ない事はしっかり明確にしておいた方がいい

③パソコンのスキルがあるならばそっちで考えてみる

④今の体力や、咳き込みという症状では向かない肉体労働や長時間勤務、接客等は避ける


これらのアドバイスを得て事務で探してみようと思いました。


ーがんになる前と後とではやりたい仕事の内容は変わりましたか

結婚後、退職してから病気になるまで事務のパートでずっと働いていたので、働くのが当たり前の感覚でした。がん罹患者を受け入れてくれるのか心配でしたが、仕事をしないと世の中に取り残されているような感じもありましたし、やりたい事に使うお金は自分で稼ぎたいと思っていました。仕事をする=社会の一員に戻りたいという気持ちでしたね。


ーがん罹患者と言わずに就職する方もいますが、そこは開示していこうと思っていましたか


県がん総合相談支援センターでは、履歴書に既往歴を書いたり、すぐに言う必要はないと言われていましたが、ハローワークには求人の問合せの際「月に1度通院が必要な方ですが、紹介してよろしいでしょうか?」という訊き方で企業様に伝えてもらうようにしました。と云うのは、最初から「がん」とは明確にしなくても持病がある事は知ってもらっていた方が働き続ける上でも良いのではないかと思ったからです。あと、仕事を選ぶ際、欠員補充の所は避けようと思いました。即戦力を求められるであろうことと、体調に配慮してもらうのは難しいかもしれないと考えたからです。なので求職票に「増員」と書いてあるところに的を絞りました。でも、それで紹介された企業様にいざ面接に行ってみたら実は欠員補充だったという事が判り「えー!!」となった経験もありました(笑)。そちらは申し訳なかったですが、辞退させて頂きました。

ー治療が終わってからどのくらいで動き出したんですか


抗がん剤治療が7月に終わったのですが、気候的にも体力が落ちていたので、ハローワークに行き始めたのが9月頃。長期療養者用の窓口があり、そこでは、特にがん患者専用の求人があるわけではないのですが、一般の求人の中でこれなら従事出来そうではないかというものを、相談員さんがピックアップしてくれるので、その窓口を利用しました。


ー希望のお仕事は見つかりましたか。


事務職だと、当時51歳という年齢もあったのか、なかなか見つからなくて、1ヵ月後くらいに軽作業まで希望職を拡げました。すると、週3日勤務の、病院の薬剤部で薬剤をピッキングして運ぶという仕事を紹介されました。勤務日数的に雇用保険に加入できないという難点があったのですが、話を聞こうと思い面接に行き、そこで肺がんの事を言いました。


ー言ったんですね!


ハローワークの相談員さんからは、「面接の時に敢えてがん罹患者であることは言わなくて良い」とも言われていたのですが、これから働きながら通院する事を考えると、肺がん罹患者で経過観察中と開示してそれでもOKなところで勤める方が得策と思い、伝えました。その時は「ええっ!」とびっくりされましたが、結果は採用で、そこで働くことになりました。給料は月7万円前後で、扶養家族内で働きたかったので問題ありませんでした。


ー実際お仕事はどうでしたか


全国展開している医薬品卸の大手上場企業が請負でやっている、薬剤のピッキングと病棟へ

カートを使って運ぶ仕事でした。時々、5キロほどの輸液とか重い物を運んで疲れる事もありましたが、身体的に楽なシフト勤務で休みが適度にある職場だったので、無理せず続けられました。薬の名前を憶えられたのも良かったですね。ですが、2016年3月に再発転移が判って放射線治療をした際、看護師さんから「重い物を持つ仕事は辞める方が良いかと思う」と言われて、仕事を辞める事を考えました。


職場の人は、「辞める必要は無い」と言ってくれました。放射線治療の時はフルタイム勤務を短い勤務時間にしてくれたり、出勤時間をずらしてくれたりと配慮してくれました。最終的には自分の身体優先で治療に専念するという決断をし退職に至りましたが、最後もシフトを調整して有給休暇を全て消化させてくれて本当に良い会社でした。仕事が請負でピッキング作業しかなかったので、配置替えは選択肢に無く辞めざるを得ませんでしたが最後まで気にかけてもらえたのは有難かったですね。


再発してから変わった仕事選びの優先順位


ー再発した時の治療はどうでしたか


縦隔リンパ節に再発、右腸骨と両腎臓にもがんが見つかりました。右腸骨は3月末にすぐ放射線治療したのですが、腎臓は原発なのか転移なのか判らず、方針が定まるまで3か月かかってしまいました。その間はもちろん無職のまま。両腎臓のがんは肺がんの転移との確定診断後、治療法は化学療法と決まったのですがその診察時、付き添っていた母親に対して主治医の伝え方が配慮を伴ったものではなく「もう治らないので、延命が目的です」ときっぱり言われたので、母は号泣でした。


―そんな先生まだいらっしゃるんですね


でも母の涙のおかげかどうか(笑)、遺伝子検査をすることになりました。するとALK遺伝子転座陽性と判定が出ました!主治医も驚く結果でした。それを受けて、分子標的薬のアレセンサを服用し始めました。副作用も抗がん剤治療の時より楽で助かりました。しかし、分子標的薬は高額で、高額療養費限度額認定制度を使っても月額4万円以上の負担となり、夫から「薬代分くらいは働いてくれ」と言われる様になりました。副作用もそんなに辛くなかったので、私も月5万円くらい貰える様に働こうと思いました。それまでは社会とのつながりが働く事のモチベーションでしたが、この時はお金がメインの目的でした。


ー今回は手術後いつ頃から転職活動を始めましたか。

8月末に分子標的薬を飲み始めて、9月にはハローワークに行き、下記の条件ありきで探しました。


①体に支障が無いところ

②通勤時間短く

③月5万稼げるところ


事務だと全く無くて、また幅を拡げました。


ー自分のその時の条件を明確にしていったんですね。


とある食品会社に面接に行った際、通院の事を質問されて肺がんの事を伝えると「うちは健康な人しか採用しません」と言われました。その経験から、紹介の段階で「肺がん患者です」と言ってもらった方が良いかもと思い始めたのですが、ハローワークの相談員さんから「既往歴は重要な個人情報で、紹介の時点で肺がんの事を伝えてしまうと、求人がマッチしなくても先方の記録には残るかもしれない。だから不用意に開示しなくていい」とアドバイスされました。それでも、面接の際に通院の事を訊かれたら、肺がんである事を伝えようと、内心では決めていました。その後、10月に、条件面で合っていた下町ロケット的な町工場での仕事を紹介されました。面接で肺がんという事を伝えたら、一瞬驚いた様な表情をされたものの「そうなんですね」と言われただけで、その場で採用されました。1ヶ月試用期間として、それで働けそうなら引き続き雇用、勤務は週5日の午前中3時間で、ということになりました。この会社も週の勤務時間で雇用保険には加入できなかったのですが、出荷の為の梱包材を作ったり配送ケースの洗浄という、身体に無理無く出来そうな仕事内容と勤務条件が合っていたので決めました。


またまた状況が変わり仕事選びの観点が変わる


ーご主人の扶養に入っていたから社会保険に入る必要は無かったのですよね


はい、でも2017年に夫が昇給して、翌2018年の4月に限度額認定証の区分が変わり医療費の負担額が倍くらいに上がってしまいました。夫も手取りが増えて大喜びだったんですが、医療費の領収書をみてショックを受けていました。「俺、何のために働いているのか分からない」と言われましたね。離婚危機と思いました。

夫の給料の額で医療費の負担額が変わるので、自分で社会保険に入った方が良いのではないかと思うようになりました。


ーなるほど、倍に医療費が上がると家計に影響しますね。


再発転移した時に「これは障害年金を貰えるのではないか」と思い、年金事務所に行ったのですが「扶養に入っている人が障害年金を貰うには、寝たきりくらいのコンディションでないと。障害年金は、厚生年金加入要件がある」と教えられました。それもあり、仕事をするならお金の為+社会保険加入という風に職場選びが変わりました。


ー希望の職場はどうやってみつけたのですか


「自分で社会保険に加入するためには、今の工場勤務だと難しい」と考え、「仕事を続けながら社会保険に入れるところに転職活動したい」とハローワークの長期療養者窓口に相談に行きました。結構長い間通いましたね。そこで、相談員さんからのアドバイスで「地方公共団体で従業員が501人以上のところなら、勤務が30時間未満でも社会保険に入れるからそこに絞ろう」と言われ、翌2019年4月スタートの求人が出始める1月から動き出しました。結果、次の職場は3月半ばに求人を見つけ面接を受けました。


ーそれは窓口の相談員さんだからこそ思いついたアドバイスですね

それまでにいくつか地方公共団体に履歴書を送って3団体面接に行きました。でも実技試験でOUTでした。漸く3月下旬に採用された職場は、4月1日から勤務の非常勤事務員です。1年契約の更新有り、月給制の週4日フルタイム勤務で、社会保険制度が整っているところでした。30年ぶりくらいに自分の社会保険証を手に入れました!死に物狂いで探せば見つかるものですね。不安で寝れない時もありました。夫には、がんになった事や高額な医療費など負わせているのが申し訳ない感がありました。とは言え夫は高校の同級生で、元々言いたい事は言い合える仲なので、痛い辛いも気兼ねなく言えて常に助けられてます。


ー今は別のお仕事をされているんですよね。


はい、地方公共団体の仕事は、元々2人でやっていた事務作業を次年度から1人体制にするという話が今年2020年の1月にあり、契約が更新されない事になりました。仕方無く2月からまたハローワークで求人を探し始めました。今回も社会保険に加入出来る事が絶対条件です。


今の職場は大学病院のがんセンターで、週5日9時から16時まで事務補佐員として働いています。4月1日に面接を受けて、翌日に採用の通知を頂き、中旬から働き始めました。この求人を見つけた時は、条件は合わないところもあったのですが「ここを紹介してください!」と相談員さんにお願いしました。相談員さんも「森田さんに合ってそうですね」と面接依頼をしてくださいました。面接対応された先生が、「がんと仕事の両立を応援している」と言ってくださって嬉しかったです。


―理想的な職場ですね、森田さんの様々な職場で採用される強みはなんでしょうか


そうですね、仕事の内容はがんの勉強にもなりますし、漸く辿り着いたなと思います。採用されたのはがん患者だったことが逆に一番の強みだったかもしれないですね。「がん患者として病院には本当にお世話になっているので、この仕事で恩返ししたい」という事を、面接の時に訴えました。先生は、分子標的薬を使っている現役肺がん患者がどれだけ働けるのかというのを気にされているかもしれませんが(笑)。


―病気されながらも仕事をゲットしているコツはあるのでしょうか


ビジョンを持つ。何月までには仕事をしたいとか。後は、社会保険もですが、自分が譲れない条件をクリアしている仕事ならとりあえずやってみる。そして、「肺がん患者」という事を面接で伝える。ハローワークから「月一通院が必要」という事は伝えてあるので、面接時確実に理由を訊かれます。その時に伝えて承知して採用してくれる方が絶対働きやすいだろうなと思っていました。そもそも今の職場はがん患者に理解のあるところなので、隠さずに言って良かったと思っています。


ー応募時のなぜその職場を選んだという理由はどうしてましたか。


事前にインターネットで業務内容等を調べて、「携わる仕事に興味がある、今までの経験が活かせる」と履歴書に書いていました。一度「条件が合いました」と面接で言った事があったのですが、そこは見事に落ちました。内部に知り合いがいて、後から「会社としては、どんなふうに貢献してくれるのかを見ているのだから、自分の求める条件の事ばかり言っちゃだめよ」と諭されました。おっしゃる通りだと思いましたね。


ー習得したパソコンスキルはどうですか。


全く使わない職場もありましたが現職場ではパソコンスキルは活用できてますね。やはり勉強しておいて損は無いですね。


―諦めずに行動して前に進み続けるって大切ですね


非正規の人は社会保険に入っていない人が多いです。親や夫の扶養家族だって安心している。でも「自分で社会保険に加入している方が何かあった時安心だよ」という事を伝えたいですね。私自身、税金や社会保険料が天引きされるよりも夫の扶養家族でいる方が得だと思っていた時期が長かったですが、もっと早くからこういう扶養に拘らない働き方をしてても良かったなと思います。


がんになってから丸7年経ったところですが、生きてるし働けています。分子標的薬は欠かせませんが、日常生活に支障はない、肺がん患者って言って良いのかしらと思うくらい元気です。がん治療と仕事の両立って正社員の立場で話されやすいですが、「働き続ける」ことを「一つの職場でだけ」と考えなくても良いのかなと思います。正社員で合理的配慮をしてもらいながら働き続けられるのがベストですが、色々な事情で「同じ職場でずっと働き続けたいのに働けない」こともありますよね。自分の体調や気持ちの変化で働き方を見直して新しいスタートを切れれば、働き続けているのと一緒だと思います。女性は非正規や無職の場合も多い。正社員の様に守られていない人たちの声もクローズアップして欲しいですね。


ー聖路加病院の就労リングで、病気の事を言わずに復帰し、オーバーワークになってしまい仕事と治療の両立に悩むという声を聞きました。その時のプライオリティを決め、次に仕事と思い動くのも大切ですね。


自分で納得しながら仕事を選択していくというのは大切ですね。治療の為に仕事を辞められる方、職場に居づらくなってしまうケースが多いのではないでしょうか。仕事とがん治療の両立は、本人だけじゃなくて周囲の人達も大きな役割を担っていると思っています。仕事に復帰すれば病気が治ったものと思われて、治療などで休みを取ると、休みたいのに休めない人からすれば役得と思われる。「あいつが休んだせいで、仕事のしわ寄せがくる」という考え方をどうしてもしてしまいがち。治療の見通しや副作用が強い時が週末に来る様に化学療法の日を設定する等、自分で周囲の理解を得られる工夫も大切ですが、例えば病気をせず働いている人達には、時季休暇の優先的な取得や報奨制度、有給休暇買取など、健康で働いている事を評価する体制があれば、元気な人が報われるのではないでしょうか。そうしたら、「治療行って来いよ」と気持ち良く送り出してくれるのかもと思いますね。


ー風土やカルチャーはがん治療と仕事の両立をするうえで大切ですよね


そう、制度だけじゃないですね。「利用できる制度を知らない」「言い出せずに使えない」「戻っても体力的に不安で辞める」というよく聞く声は、制度を整えるだけでは解決しません。職場が風通しの良い雰囲気である事も大切だと思います。お世話になった工場は、規模は小さかったですが凄く家庭的で社員にやさしく働きやすかったです。やはりがん治療と仕事の両立をする為には、日頃から良好な人間関係を築いておくのが大事だなと思いますね。

自分の経験を伝える事の大切さ


ー現在顔や名前を出して自分の経験を話すようになったのはどうしてですか


自分の事を話すようになったのはつい最近です。仲間と肺がん患者会を立ち上げ代表になったのが大きなきっかけでした。それが2018年で、発症の5年後ですね。それまでは表に出ようとは考えていませんでした。2014年から県のがんピアサポーターとして活動はしていて、取材の申し込みもありましたが、顔出し名前出しはすべてNGにしていました。


ー隠してはいないけど、ちゃんと伝えきれない自分もいまだにいて気になります


2015年に国立がん研究センターの患者パネルに参加して、様々な活動をしている人達に会ったんです。目から鱗でしたね。同じがん患者なのに凄いなと思いました。

そこから患者会を立ち上げる勇気をもらいました。そして、自分の顔を出さないと伝わらない事がある、匿名で無い自分の言葉として伝えないと共感も得られないと思い、顔と名前を出すようになりました。今は患者会の代表は退いていますが、一がん患者として自分の経験が誰かのお役に立てればと云う思いで発信しています。


―きっと森田さんの話を聞いて勇気づけられる人達沢山いますね。これからのさらなる活躍応援しています。貴重なお話をありがとうございました。



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