生活とがんと私 Vol.5 佐々木治一郎さん


長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。



インタビュイープロフィール

お名前 :佐々木治一郎先生 

職業  :大学病院勤務・医師

    :がん経験者の家族











熊本県出身。熊本大学医学部在籍中に肺がんで母親を亡くし、がんの基礎研究進む。

大学院在籍中にMDS/白血病で長男を亡くしました。呼吸器内科医としてキャリアをスタートさせ、MDアンダーソンがんセンター留学を経て、がんの基礎研究・トランスレーショナル研究、がん診療、緩和ケア、がん診療連携、患者支援活動と、「がんという病気に立ち向かい、がん患者・家族に寄り添う」をモットーに活動しています。



目次


・患者さんに最後まで寄り添う呼吸器内科

・長男と歩んだ日々の事

・長男との日々で気がついた事

・一つのライフイベントとしてがんがある



患者さんに最後まで寄り添う呼吸器内科


―まず先生のお仕事について教えていただけますか


ベースは呼吸内科医で腫瘍内科医です。主に胸部腫瘍、肺がんを診ています。しかし、ここ最近はゲノム医療を担当していますので様々ながん患者さんの相談を受けたり、遺伝子パネル検査をしたり、検査後のフォローをしています。同時に、北里大学病院にある緩和ケア専門外来の担当医師として隔週で外来診療を行っています。


―幅広い分野で活動なさっていますね。先生はなぜ医師を目指されたのですか


父親が小さな海運会社経営をしていて、毎日家に人が出入りするような生活でそれが苦手だったんです。小学校4年の頃に、「何になれば仕事を継がなくていい?」と聞いたら「医者か弁護士!」と言われたので小学4年生の時に医者になる事を決めました(笑)

その頃住んでいたのは小さな田舎町でした。自分は虚弱体質で年中かかりつけ医のお世話になっていました。その先生からは「この子は20歳まで生きられない」と言われるくらいでしたが、その後出会った剣道のおかげでこの通り元気に成長しました。その経験もあり、最初は小児科医を目指して医学部でも勉強していました。しかし転機があり、23歳の頃、当時47歳の母親に肺がんが見つかりました。「後1年半」と言われて本当に48歳で亡くなりました。その時、「肺がんをどげんかせにゃならんばい」と思い、肺がんを診る呼吸器内科に進路を変えました。


ー呼吸器外科と呼吸器内科で悩まれたのはなぜですか


30年位前の話ですけど、当時から肺の領域は手術の症例は呼吸器外科で、それ以外の方達は呼吸器内科が引き受けるという役割分担がしっかりしていました。外科を選ぶと手術の症例だけになってしまうというところに悩み、最終的には呼吸器内科を選びました。当時は、抗がん剤も種類が少なく、吐き気止めなどの支持療法薬も乏しい時代でプラチナ併用薬を使い,みなさん吐き気と闘いながら治療されていました。そうした状況を考え、自分は最後まで患者さんと向き合いたいと思い内科を選びました。最初はつらかったですね。根治はもちろん出来なくて半年くらいで腫瘍が大きくなってしまう。症状も多様で、多くの患者さんを看取りました。それで無力感と闘いながら、「どうにかしないといけない」とさらに強く思いました。


ー今はその頃に比べて肺がんを取り巻く状況は変わりましたか


雲泥の差です。支持療法が本当に良くなって、化学療法で吐く方をここ5年位、肺がん領域では見てないです。制吐剤でいいものが出てきて、シスプラチンを使っていてもケロッとしている方を見るようになりましたね。飲み薬で治療できる方や、免疫チェック阻害薬で治療して「私本当にがんなんですか?」と無症状すぎて聞いてくるステージ4の患者さんもいらっしゃいますよ。


ー一時は無力感にさいなまれたとのことですがチャレンジし続けられたのはなぜ?


本当に患者さんから色々な事をたくさん教わったからだと思います。患者さんやそのご家族から感謝の言葉をいただくのはもちろんの事、お叱りをいただく時も多くの事に気がつかされるんです。映画の「こんな夜更けにバナナかよ」に出てくる「俺のわがままは命がけなんだよ!」というメッセージは本当に共感しました。その瞬間は、辛くなることもありますが、後で振り返ると何も理不尽な事なんてない。患者さん全員が自分の先生ですね。



長男と共に歩んだ日々の事


ー先生のご家族のお話を聞かせていただけますか


30代前半くらいの時、自分が大学院生で研究したり論文を書きながら働いていた時に、長男が生まれました。生まれた子はダウン症と口唇口蓋裂で生まれたのですが、とっても可愛い子で両親とみんなで大喜びしました。彼は、内臓はとても丈夫で元気に生まれてきてくれたのですが、ミルクを飲ませるのは大変で、搾乳して特殊な哺乳瓶で飲ませていたので妻が本当に頑張ってくれました。


―先生のお話しているお顔で本当にかわいい子だったんだと伝わってきますね


はい、でも生後6か月頃、公園で遊んだ後、発熱と共に突発性発疹のような赤いプチプチが出てきたんです。実はそれは点状出血だったんです。

すぐに近くの市民病院につれて行きましたが、すぐに大学病院小児科を紹介され、「MDS骨髄異形成症候群」という白血病の前段階状態と告知されました。

それからずっと同じ病院に入院して輸血をしたり、抗がん剤を投与する治療を始めました。

入院して3ヵ月くらいたったころ、主治医から説明があり、「白血病化すると思います。根治の為に骨髄移植が必要だから準備しましょう」と言われました。HLA(Human Leukocyte Antigen=ヒト白血球抗原)が半分しか適合していませんでしたが、倫理員会を通して父親である私から息子に移植することになりました。骨髄バンクは間に合わない可能性が高かったのです。


ー研究しながらお子さんの看病もする生活。どのようにしていたのですか


日中がんの実験をしながら、夕方になるとそれまで付き添っていた妻と交代して息子に付き添っていました。そんな生活をずっとしていました。

しかしその年の年末急に息子の容体が悪くなり、移植を正月明けにすることになりました。なんと、阪神大震災の時に骨髄移植をしました。移植はうまくいって、無菌室の中で元気になっていくのが見れてうれしくて移植の痛みは忘れました。Disneyの「Under the Sea」が好きでね。それを聞きながら元気に動いている、ステロイドで少しひげが生えたように毛深くなった息子がとても可愛いかったですね。


ー元気な姿を見れたのは良かった。両親にとってこれ以上嬉しい事はないですね


実は妻は妊娠していました。長男が入院した頃に主治医から臍帯血移植を提案されていたんです。臍帯血から血液幹細胞が取れます。それを使うと拒絶反応も少なくていいんですね。それも頭の片隅に入れて妻と相談してたのですが、無事新しい命が宿ったんです。それが、なんと双子だったんです。移植から3か月たった4月、妻は切迫早産になり、産科に入院になりました。家族全員1ヵ月くらい同じ病院の違う場所にいるという状況になりました。


ー切迫早産だと寝たきりで動けない状態ですよね


はい、5月に息子の具合が悪くなって、6月に入ってGVHDが起き、呼吸が出来なくなって集中治療室に入りました。それと時を同じくして、6月18日に双子が生まれ、7月9日に長男は亡くなってしまいました。妻は一番長男のそばにいてあげたい時に、自分が入院になってしまい一緒にいれなかった事を悔やんでいました。入院していたことで筋肉がやせ細り、立つのもやっとの身体で双子の育児と長男のお葬式もあげなきゃいけなくて本当に妻は頑張りました。


ー先生も辛かったですね。どうやって日常を回されたんですか


これはもうタイミングが良かったとしか言いようがないのですが、その時自分は学生(大学院生)という立場でした。論文発表に必要な研究も十分にできていましたし、アルバイトの外来担当や当直をする以外、病院の入院担当とかはなかったんです。大学院生という制約の少ない自由な時間を確保する事が出来て、何とか患者さんたちに迷惑をかけずに済みました。


ー気持ちの部分は、先生はどうやって乗り越えましたか


もう日々が精いっぱいであまり覚えてないです。でもね、双子が本当にかわいかったんです。だから頑張れた。でも、妻は長男の事もあったし、なんせ元気な双子のワンオペ育児なので大変すぎて愛情を十分に注げたかわからないと言っていましたね。

私も彼女が仏壇の前で泣いている姿を今でも覚えています。みんな必死になって乗り越えたんだと思います。


ー「時薬」のようなものでもありますね


あとはね、思い出しましたがお経。四十九日ってありますよね。私達は長男の月命日も休みを取って実家に行っていたんです。浄土真宗のお経に白骨の章というのがあって、「されば朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり。」という一文があるんです。人間の命はそれだけはかないものというたっているんです。「確かにそうだよな」と思って。人間の死それは無常でね。でも亡くなった後も彼らは上から見ている。それを信じてもいいのかなと急に信心深くなりましたね。そして初七日、二七日とちゃんとやると法事も49日まで1週間に1回、計7回もある。それってとても忙しいんです。でも忙しくする事で他の人とも触れあえるし、悲しさに耐えられるんです。昔の人は強制的に忙しくするシステムを作っていたんだな思いました。


長男との日々で気がついた事


昔は生意気な研修医で「私は絶対間違えていない!」というキャラでした。しかし、息子との生活の後、現場に戻ったらベテラン看護師さんに「先生、変わりましたね」と言われました。息子との経験を通して知ったのは、「思ったように行かない事もある。その時あるベストを見つけていくのが医療だ」という事です。エビデンスだってそうですよね。確率の差を言っているだけで勝ち負けじゃない。あくまでもその時点でのベストであって100点じゃない。そこを理解しないといけないと思うようになりました。

それから患者さんの声を聞けるようになりました。看護師さんや薬剤師さんのアドバイスもすっと入るようになりました。これは、息子のおかげですね。


ー大きな視点の変化が先生の中にあったのですね


人の死は悲しみだけじゃなく、気付きを与えてくれるものですね。

色々な人がいます。だけど、病気で苦しむのは皆一緒。今までの人生は一切関係ない。死を感じた人は色々な事を考え始めます。私は、その現場にいる医療従事者こそが「考えを促すサポーター」にならないとって思っています。これは理想ですが、それが緩和ケアに携わってる理由でもあります。最終的には「この人生でよかったな」と思ってもらう、納得してもらうほうが、腫瘍が5mm小さくなるより大事だと思うんですよね。


ー直面している本人はそれに気がつきにくい視点かもしれないですが、大事な視点ですね


はい。なので、まずその方がどんな人生を送ってこられたのか聞く事から私は始めます。どんなことがあったのか、どんな失敗があったのか、どういう気持ちを持っているのかなど。自分の事も話しながら聞いていくんです。ここを知らないと、本当の意味でのサポートも出来ないかなと思っています。


ー人によっては病気の事は触れてはいけないと思っている人もいますけど、聞いてあげた方がいいと思いますか


ご家族が聞いた方がいいかどうかは、色々なご事情や関係性もあるので一概には言えませんが、医療従事者は聞いた方がいいかな。治療や、エビデンスの話もした方がいいだろうし、患者さん一人で頑張れる人なかなかいないですからね。1人で頑張らないで顔が思い浮かぶ人たちに頼っていいとも伝えます。でもそのアプローチも人それぞれです。その人を知らないとちゃんとフォローできません。

自分でぱっぱと決めて動けている人が、自分を貫きすぎると失敗しちゃったりもする。だから「色々な人にまず聞いてみたらどうですか?」と他者を頼る事を促したり、反対に周りの意見をよく聞く方には、「一旦自分がどうしたいかはっきりさせてから周囲にも聞いてみましょうか」と話したりとかね。

その人の今までの事を知らないと適切なフォローはできないので、色々話しをしていただいています。


ー先生のやり方は医療現場だけじゃなくて両立支援に取り組む職場にも通ずるものがありますね


本当にそうですね。職場であっても「話が聞ける、話したい事が話せる」というのは大事です。がんになったというのもその人の人生の一部です。そこだけ伝えるのではなく、「自分の人生こんなことがあった、あんなことがあった。そして今回がんになった」と人生の中のイベントの一つとして話すと、その人の人生の中でどれだけこのがんになった事の占めるウェイトが大きいのかという事も図る事が出来ますよね。

「ポン!」とがんの事だけ言われても、聞く側も判断しづらいと思うのです。話す側も、聞く人の事を意識してみるといいと思います。人生の中の一つのイベントとして話す方が伝わっていいと思います。


ーお子さんを亡くされた時その話は同僚にしましたか


しました。今は患者会でも話しますよ。「よく淡々と話せるね」って言われた事もありますが、やはり、話すって大事です。こちらが話す事で、向こうも今まで聞いていなかったようなちょっとした話を聞かせてくれたりして互いにピアサポートし合えたりするんです。一緒に働く人をより理解できるし、信頼関係が作れます。一緒に働くチームメンバーには、話せる事は話すに越したことはないというのが私の持論ですね。


一つのライフイベントとしてがんがある


元々医者になった時は、肺がんを治せる病気にすると思って始めました。我々の研究が繋が

ってゲノム医療になっているので若いうちに目指した目的は一つ終わりました。残り10年のミッションは、「がんになった人がその人らしく、一つのライフイベントとしてがんがあって、それと共に自分の人生を生ききるのを社会が認めてくれるような社会にする」というものです。具体的には、そんなふうに生きていかれる患者さんをサポートできる医療者を育成していく。そして、社会に啓発していかなきゃいけないと思っています。がんはありふれた病気で、がんになった事で様々な経験をして、生き生きと生きている人もいる、社会がよりよくなることもあるという事を伝えていきたいです。


ーがんになってもその人らしく人生を生きていける社会実現させましょう!


そしてもう一つ。神奈川の病院に来て10年なんだけど、神奈川県に恩返ししたい。自分が求める社会を実現するためには、行政との連携して神奈川県から全国に広げていきたいと思っています。がんの患者さんとかご家族が安心して暮らせる街づくりを提案して人生の一つのイベントとしてがんがあるというのを認める社会にしたいですね。その為にも緩和医療、ピアサポート、そしてアドバンスケアプラニングなどにも力を入れています。




ーこれから両立していく個人に対してのアドバイスをお願い致します


告知を受けた方、何も考えられないくらいパニックになってしまうのは普通です。自分が弱いわけではないというとこを知っていただきたいです。そして、生活を変えるような事は急には決めて欲しくないです。どういった治療が必要で、どう付き合っていくのか医療者と話し合い、サポートを受けはじめてからゆっくり決めていただきたいです。告知後いきなり仕事を辞めたりしないように注意して欲しいです。


ー企業に対するアドバイスをお願い致します


最近大きな企業では就労支援を担当してくれる部署が出来たりしています。がんは誰でもなる病気。特別気をつけないといけない事が増えたわけでもありません。当事者とよく話し合い、人事や産業保健スタッフなどと一緒になって支えてあげて欲しいです。外部には色々企業をサポートするシステムもあるので、そういうものもうまく使って欲しいですね。とりあえず、わかりやすいところではがん相談支援センターがあります。両立支援という意味で企業との連携をサポートする事も出来ます。気軽に相談しにきてみてください。患者さんと一緒に来て使うのも大歓迎です。



―先生のこれからのさらなる活躍応援しています。貴重なお話をありがとうございました。



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