がん防災マニュアル:制作秘話⑤ デザイナー 望月ミサさん(下)
このシリーズはがん防災マニュアルの制作に携わったメンバーのご紹介と思い入れについてご紹介するシリーズです。第五回目はデザイナーの望月さん。ここでは、がんの治療と仕事についての体験をかたってくださいます。(望月さんのインタビュー前半はこちら)
4.幼き日の記憶からつながる デザイナーへの道
N:望月さんはどうしてグラフィックデザイナーになられましたか?
M:私には「誰もが知っているアレをデザイン!」とか華々しい受賞など何も無いのですが(笑)、デザイナー歴は35年になりました。何をやってきたか簡単に生い立ちからご紹介します。
子どものときから絵が得意でした。絵というと普通は写生とかを思い浮かべますよね。そうではなく、私は‥‥「漫画の模写」といえばイメージしやすいでしょうか。あの頃は皆さんやったと思います。例えば、サンリオキャラクターとか。全くの模写ではなくって、「オリジナルに無いポーズまで描ける」というのがうまいと、わりと注目されました。それは、いわゆる芸術の絵画とはちょっと違うんですよね。
中学生になると、アニメ好きな子はアニメーターを目指したり、漫画が好きな子は自分でコマ割りして書き始めたりとか、それぞれの道を歩み始めるけど、私は一通りやってもしっくりこなくてね‥‥。それで、私が一番ハマってたのは「学級新聞をつくること」。

N:えー!(驚)
M:そう、今やっている事とほぼ同じ(笑) 国語はそんなに好きじゃないのに「活字」が好きでレタリングできれいに書いたりして。しかも壁新聞みたいな大きなものより手元に収まるくらいのサイズが好みでした。
周りから「上手だね~」とか言われると、段々とそっち(美術系)に向かうようになってね。バブルの当時は印刷業が花形で、こういう職業(グラフィックデザイナー)があるんだって高校生くらいには知ったので、美大でグラフィックデザインを専攻して、卒業後はすぐに現場に出たくて就職しました。
初めは中規模の、広告とかの制作会社でした。色指定や文字の組み方とか、完全アナログの時代で「こうやるのかー!」って一通り覚えられるという喜びはあったんですけどね、2年目くらいで早くも行き詰っちゃって。なぜかと言うと『やり方が上手くなってもデザインが上達するわけではない』というのが自分にとっての壁になっちゃって‥‥。
その後めちゃくちゃ厳しい師匠がいるところに13年も勤めちゃって。昔気質の職人さんだったので、学んだことは大きかったです。今はあまり見られない「筆で線を引く溝引き」からでした (笑)
当時は写