top of page
執筆者の写真最新情報

生活とがんと私 Vol.2 花木裕介さん

更新日:7月9日

長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。



インタビュイープロフィール

お名前:花木裕介

職業 :医療関連サービス会社勤務

がん種:中咽頭がん

ステージ:ステージIV

治療内容:術前化学療法→放射線治療

休職期間:9ヵ月


1979年生まれ。医療関連サービス提供会社勤務。がん罹患者に関わる方専門の産業カウンセラー。

2017年12月、38歳のとき、中咽頭がん告知を受け、標準治療(抗がん剤、放射線)を開始。翌8月に病巣が画像上消滅し、9月より復職。社内でがんの経験を活かし活躍を続けるかたわら2019年11月一般社団法人がんチャレンジャーを設立し、罹患者と周囲の良好なコミュニケーションを育む手法の提供をおこなう。2019年2月、「青臭さのすすめ 〜未来の息子たちへの贈り物〜(はるかぜ書房)」を出版。厚生労働省委託事業「がん対策推進企業アクション」におけるがんサバイバー認定講師。


目次




1人で抱えなくてもいい


ー花木さんの経験を聞かせてください


3年前38歳の時にがんに罹患しました。標準治療を受け、自宅療養し、画像上で病巣が消えたのを確認した後企業との話し合いの上フルタイムで復職しました。9ヵ月休職したのでそこそこ会社から離れていましたが、復職して無事1年半が経ちました。最初に「がんでしょう」と言われた時は、頭が”真っ暗”という感じでした。真っ白ではなく、未来が閉ざされた感じ。家族、キャリア、お金の事等その一瞬は「終わった」と思いました。


ーその気持ちを抱えてどうされましたか


がん宣告を受けた後すぐ職場に行き上司に伝え、仕事の整理をして治療を受けるために最低限やらなくてはいけない事を片付けました。その間に段々気持ちが落ち着いてきて「とにかく今は体を治す為にベストな選択をとるしかない」と感じるようになりました。恐れはあるにしても、目の前にある事を一個ずつやるしかないと徐々に受け入れていき、割り切って対処できるようになっていきました。その時の原動力として「身体を治さないと何も始まらない。治療をやり切れば治る見込みもある」という主治医の言葉がありました。


ー立ち止まらずに動く環境があったことが良かった、ということでしょうか


自分で大きかったと思うのは、職場の上司、人事、家族はもちろんの事、会社の福利厚生で利用できるメンタルカウンセリングサービスで相談出来た事が良かったです。このカウンセリングサービスはがんになる前から使っていたのですが、自分の状況を伝え、それに対し今の現状整理・把握を手伝ってくれたり、必要な情報提供や応援をしてくれるものでした。

「病気の事も1人で抱え込まなくてもいいんだ」「他の人にも頼っていいんだ」と思えたのは嬉しかったです。それがなかったら気持ちが折れていたかもしれません。目の前の事に取り組むと言ってもエネルギーが必要なので、すべて1人で抱え込んでやれと言われたら出来なかったかもしれないです。人に相談したり弱みを見せられたのは結果としてよかったと自分は思っています。


ー昔から周囲に”相談”していたのですか


がんの疑いがあり、精密検査を勧められた時も上司に伝えてから行きました。上司も会社のメンバーも以前からコミニュケーションは密に取りあっていました。「これは言えない」というのはあまりなかったですね。罹患前から職場の中での人間関係、会話に力を入れていたのは役に立ったと思います。

自分が元気な時、周りで困っていそうな人に対し「何かあったら声かけてくださいね」と声がけをして出来るサポートをするようにしていたので、そういう人間が助けを求めても「お互い様だよね」という風に思って助けてもらえたんじゃないかと思います。それまで何もせず、いざとなってしまってから突然「助けてください」と声をあげるのは難しい気がしますね。



がんに気付いたきっかけと治療


ーがんはどうやって見つけたのですか


自分は中咽頭がんなんですが、ある日頬杖をついた時に首に”ピンポン玉くらいのしこり”が出来ている事に気がつきました。「大きい。今までこんなものなかったよね?」と思い病院へ行き精密検査を受けて中咽頭がんだとわかりました。後々分かったのですがあの時触れたふくらみは原発巣ではなく、がん細胞がリンパ節転移した所が膨らみ出来たものでした。お陰で幸か不幸か、自ら気付き治療するきっかけになりました。


ー治療をすると決めた時どうやって病院を選びましたか


精密検査をした病院では、確定診断はなくて「おそらく80パーセントがんでしょう」と言

われました。「全身転移があった場合でも対応が出来る病院で全身の精密検査を受けた方がいいのではないか」と主治医から提案があり、その後の検査は紹介状を書いてもらった大学病院でおこないました。結果は全身の転移はなく、首だけにとどまっている事がわかりました。

ほっとしたのも束の間、次は病院選び。大学病院は、家から1時間半かかり通院するのはとても大変でした。入院中の家族の負担はもちろんの事、退院後の治療は定期通院でおこなうという事から自分に合った病院や治療の情報が欲しいと考えセカンドオピニオンを2か所受けました。

セカンドオピニオンの結果、主治医が提示したのと同じ標準治療である抗がん剤と放射線を利用した治療を示されました。その時子供は小学生1年生と4歳の2人。入院中の家族の負担を減らすのが得策と考え大学病院の主治医と相談し、家から通いやすい標準治療が出来る設備のある病院を選びました。


ー治療内容を教えてください


中咽頭がんの標準治療でもある、抗がん剤でがん細胞を縮小させ、その後放射線を当てがん細胞を破壊する治療を受けました。

摘出手術も選択できたのですが、主治医から「がん細胞が声帯にかかっていて手術だと声帯を傷つけ、その後声が出にくくなる可能性もある。年齢も若くQOLを保つ事を考え、治療が長引くかもしれないけど抗がん剤と放射線治療の併用をお勧めします」と言われました。手術をしたら確実に傷つくというわけではないが、極力リスクを減らしたいという先生の気持ちが汲み取れました。今後の自分のQOLの事を踏まえたうえでの提案だったので「それであれば先生の勧める治療法で頑張ります」と伝えました。「抗がん剤も放射線もしんどい」とは言われましたが「この半年は頑張ります」と、効果とリスクを天秤にかけ自ら選びました。


ー治療の副作用はどうでしたか

抗がん剤は吐き気、倦怠感、脱毛、口内炎などが副作用としてありました。毎週1回、抗がん剤を点滴で入れた翌々日から1週間ほぼずっと大小の波はあるにせよ副作用の症状が出ていました。それを2か月間続けたので結構しんどかったです。しかし無事抗がん剤治療が終わり、結果も良好だったので計画通りすぐ放射線治療に移行しました。

この放射線治療、喉に通院で35回放射線を当てるのですが、平日毎日通って1照射約10分。15回目くらいから喉のただれが出てきて痛かったです。喉の粘膜が焼けただれた感じで、食べ物が通らなくなりました。最近は放射線治療の負担は減ってきているそうですが、やはり食べ物が直接通る喉は激しい痛みを伴いました。治療の後半からは水やつばを飲むだけでも激痛が走り、食事がとれなくなりました。痛み止めを処方してもらっていたのですが、摂取量が決まっているので気休め程度にしかならず、最後の方は胃ろうで栄養を取っていました。



ー胃ろうを使った期間はどのくらいあったのですか


治療後も胃ろうを使っていたので約1ヵ月半くらいお世話になりました。固形物は食べられないし、飲めても水。治療の副作用で味覚障害が出ていて食べても味がしない。そうなってくると食事も楽しめない。”痛み”で辛い。でも食べる楽しみも奪われて、気を紛らわそうとしても喉が痛くてそこに意識がいき逃げられない。家族に泣き言を言いながら支えてもらいながらなんとか治療を最後までやり終えました。

周囲に弱音は吐かないつもりでしたが、「もう治らなくてもいいから治療をやめたい」という事を妻に言った時、無理に励ます事もなく「限界がきたら先生に言いに行こうか」と寄り添ってくれたので反対に「頑張るぞ」と思えました。今もその事を思うと、妻には頭が上がりません(笑)


ー無事通院治療が終わり結果が出るまでの3ヵ月どう過ごしましたか


最初は焦る気持ちもあり早く復帰したいと思っていましたが結果的にはよかったと思っています。当然その当初は心苦しさはありましたし、平日昼間大人がスーパーで買い物してるとか周囲が見たらどう思うのかと思いました。後ろめたさも多少ありましたが、長い目で見ると男性で就職後そんな長い休みをもらえるなんてめったにないので、一旦会社の事は忘れて、復帰した時よりよいパフォーマンスを出せるように今は自己啓発だったりリラックスする時間として使おうと思いました。



復職と情報共有


ー復帰はどうされたのですか


抗がん剤と放射線治療を終えた後、すぐ復帰の相談をしました。しかし、放射線治療の効果

は治療後2~3か月経過しないと分からないので最終検査結果はその時出ていませんでした。そして治療の後遺症で喉の痛みもまだありました。

会社からは「ちゃんと療養してから復帰したらいいんじゃないか」と言われ、3ヵ月後、病巣がない事を確認した後に復職しました。トータル9ヵ月休職しました。


ー会社の提案はどう思いましたか


復帰できるなら早く復帰したいと伝えていました。やはり自分のイメージで「ブランクがあると復職が難しくなるんじゃないか」という思いがあったからです。しかし企業からは「70%の状態で帰ってきて何かあったら大変。お互いの為にもフルタイム(9時ー17時)で働けるようになってから帰ってきて欲しい」と言われました。

正直焦りましたが、企業側から「正直今のコンディションだと受け入れるのに不安がある」と言われると、自分も焦りから復帰を急いでいた面もある。復帰したが「きついのでやはり休ませてください」なんてなると周りにも迷惑かけると思いました。業務やキャリアの心配はひとまずおいておき、まずはしっかり仕事が出来る体力を戻すことを念頭に置き、気分転換をしながら自宅療養期間を過ごしました。


ー企業側の対応でよかった点は

直接言った方もいましたが時間がなかったので、治療に入る前にがん治療の事を全社員が見られるメルマガを利用して伝えさせてもらいました。又聞きされるのは嫌だったんです。きっと誤解されたり変な噂になるのではないかと思い、それらを避けるためにも自分から関わる人達に事実を伝えたいと思いました。

そのおかげか治療中も自分の書いたブログにコメントをくれたり、ユニフォームに100名くらいの寄せ書きをしてプレゼントしてくれたり。みんなが知っているからこそ共通の話題になり、みんなで応援してくれるという仕組みが出来ました。


ー素敵な会社ですね!


恵まれていました。復帰した時も、「待ってたよ」と言ってくれたり、なにかと配慮してくれました。例えば、復帰当初、放射線の副作用で冷え性になり、漢方を処方してもらったのですが、それが原因で頻尿になっていました。そしてこれも副作用で、身体の温度調節がうまくいかなくて凄く暑かったり寒かったりと周りが感じる快適温度と自分の快適温度とがずれていました。そんな自分を気遣って、同僚が会議がある時はドアに近い方の席をとってくれたりしました。

自分の身体のコンディションを伝えなかったら出来なかっただろう配慮を先回りしてやってくれ、「悪い」と感じながらもその配慮は本当にありがたかったです。


ー全員にカミングアウトしたのは勇気がいりませんでしたか


がん告知されてから休職するまでの3週間ずっと考えました。「みんなに言ったらどうなっちゃうんだろう」「戻ってもポジションあるのかな」「みんななんて思うんだろう」等など。最終的には「隠していても結局今のパフォーマンスと比べると復帰後は落ちるだろう。だったら先にカミングアウトした方がお互い気持ちよく働けるんじゃないか」と思うようになりました。

復帰後のキャリアのイメージは、元々昇っていた山を昇りなおすのではなく新たな山を登るイメージ。同じように昇進を目指して頑張っている人と比べると確実に後れを取るという事はわかっていたので、「自分は違う道行くよ」と自分から進路変更するイメージでした。やはり、一旦手放さないと苦しいなと思いました。

自分の昇る新たな山は「自分のがんの経験を人に伝える、罹患した方を励ますような活動をする」と治療前から自分の目標を再設定していました。目標の再設定は治療に立ち向かう意欲にもなりました。そして同時に、人前で自分の経験を話すとなれば遅かれ早かれ周りも知る事になるのでカミングアウトしてもいいのかなと思えました。


ーどんなことを伝えていきたいのですか


自分は復帰後、以前と同じようにレールにそって頑張る事も出来るし、全部諦めたわけでも

ない。しかし”得難い経験”をしたので、それを周りに伝えていきたいと思っています。「食事がちゃんととれる、よく寝れる、子供と一緒に日常を過ごせる」という”当たり前の事”が ”当たり前にできる素晴らしさ”を健常者の人よりも感じられているのは、食事がとれない辛さや治療のしんどさを知っている自分だからこそ。

講師として話をすると、以前と言っている事は同じでも「重みが違いますね」と感想を頂いたりする。昔から「命は大切にしなきゃ」と思い生きてきたのですが、今の自分が話すとより説得力があり、真剣に聞いてもらえていると感じています。諦めずに”新たな山”を登り始めてよかったと思っています。




ーお子さんたちにはどのように伝えましたか


「ちょっと大変な病気になったけど治ると思うから、ちょっとだけ我慢してね」と子供にもちゃんと伝えていました。4歳はどこまで理解するかわかりませんでしたが、小学生は色々気がつきますよね。突然父親が2週間家にいないとか、いつも週末一緒に公園で遊ぶとかしていたのが出来なくなる。何も言わないでおくと不信感を招きかねないので先に「大丈夫だと思うから辛抱してね」という風に伝えました。


ーなぜ伝えようと決めたんですか


“がん”は病院や本にひらがなで書いてあるんです。小学生はひらがなが読めるので、自分が何も言わないうちに「がんって大変な病気!」と別の所で情報を仕入れて不安にさせてしまうより、「情報をある程度与えた方が子供も安心するんじゃないか」と妻と相談して自分たちで伝える事に決めました。


ー伝えた後はどうでしたか


具体的な変化が起きるまではわからなかったようですが、3週間入院して不在にしていた時、「もうお父さんは帰ってこないんじゃないか」と思い泣いた事があったみたいです。しかし、大半はちゃんと歯を食いしばって耐えてくれたみたいですね。今は経過観察をしていますが、会社に復帰もしているし、自分に対しては普通に接してきています。


ー伝えてよかったと思っていますか


伝えてよかったです。隠すより言えるところまで言った方が子供も安心すると思います。「自分にちゃんと伝えてくれた。お父さんの言葉を信じよう」みたいに。疑心暗鬼になられるよりか伝えて安心してもらう方がいい循環が生まれるんじゃないかと経験上思っています。


ー思っている以上に子供は気がつきますよね


隠し事は気づきますね。「なんかおかしい?」みたいな。そしてこちらもオープンにした方

が楽なんです。子供ながらに配慮してくれたり、協力しようとしてくれたり。がんになるのは嬉しい事ではありませんが、おかげで9ヵ月休んでる間、子供はとても成長したと感じました。親が思っている以上に子供には力がありますね。




ーご自身には何か変化はありましたか


2020年上半期はコロナ一色で、お金、仕事、身体の面で不安が社会全体にあると思います。実は自分はそんなに思っていたより不安を感じていません。自分ががんになり、生き死にというところを経験して、色々考えました。その経験が今生きています。全く不安がないわけではないですが、腹がすわってきたというような感じです。今はコロナの影響で自宅待機していますが折角なので子供と一緒に沢山遊び、遊べなかった時期の借りを子供に返しています。自宅待機を命じられ、これはこれでストレスフルですが、ただ不安がるよりはこういう時期だから出来る事をしようと気持ちの切り替えが上手くできるようになりました。


ーコロナに対して必要以上に怖がっていないのですね


ケアする事にベストを尽くすようにしていますが、そうはいっても病気はなる時にはなる。コロナウイルスは気がつかないところでもらっている可能性のあるウイルスです。自分がいくら頑張っても100%避けられるものではない。ある意味がんと似ていますね。

そんなウイルスと共生していく中で後悔しないように生きるにはどうしたらいいかというと、日々一生懸命頑張っておく。「●●になったらどうしよう」と不安になるのではなく、「●●になってもいいように一日一日ベストを尽くそう」と考える。自宅待機で時間があって子供と過ごす時間がある。こういう機会だから時には叱りながら時間を沢山使って今出来る事を一緒に色々やろうと思っています。病気になってより一層強く感じられるようになりました。目の前の事に集中して「今日もよく頑張ったな」と思って寝る。その行動を繰り返すことで、不安も最小限に抑えられていると思っています。


ーなったらどうしようではなく、なっても後悔しないように生きるというのは素敵ですね


過去も未来も気にならないとは言えないけど、極力そこに気をもっていかないように、今出来る事に注力する。マインドフルネスみたいにですかね。周りは変えられないけれど、自分の行動や考えは変えられるので「ストレス減らしながらやれる事をやっていく」事をすれば、不安に呑み込まれにくいのかなと思います。再発転移の恐怖もあるけど、「そうなった時後悔しないように今出来る事をやろう」と自分が考えている事にコロナになり気がつきました。


ーがんになったからこそ得た視点ですか


病気はできることなら経験したくなかったですが、そこから学べることは沢山ありました。こういう立場になった事で同じような経験をした方への共感もしやすくなりました。自分の視野も幾分か広がったと思います。がんが見つかり沢山悩んで辛い思いもしましたが、得られるものもある。同じ罹患者の方もそう捉えられるように頑張って欲しいです。精密検査とか不安を抱えている人もいるかもしれませんが、いずれ状況は変わるしきっと良くなる。ピンチはチャンス。そういう考えも頭に片隅に入れておいて欲しいなと思います。



働く罹患者へのメッセージ


ーこれから治療と仕事の両立に取り組む人に対して


出来るだけ多くの関係者に伝えられる範囲で情報を伝える。男性女性、腫瘍の部位などによ

って伝えづらいとかあると思いますが、キーマンには伝える。勇気をもって伝える事により、相手から信用してもらえる。体調が悪くなった時にスムーズに調整が出来たりする。あらかじめ知っておいてもらった方がやりやすいです。例えば登壇する時も、体に異変が起きて行けない時とかもあります。「もし、体調が悪くて穴をあけそうになったらそういう時は宜しくね」と伝えても、周りも理解しているので、「調整します」とか、「気にしなくていい」と言ってくれます。隠してやっていこうとするとお互い違和感を感じそれがストレスになります。せっかく復帰してもそれでは辛いですから、多くの人に伝えておくのが一つアドバイスです。

もう一つ、言葉尻の話かもしれませんが、「無理をしない」は難しい。周りの人もよく言ってくれますが、共同生活をするなかで無理を全くしないのは難しい。自分は「無理をしすぎない」という事を心がけています。「これ以上やったらまずい」というところに線を引いて対応しています。昔だったら体力に物言わせてやっていたところの残業も時間を決めてやる、睡眠時間7時間は死守する等。多少の無理はするけど、それを超えそうだったら「これ明日でもいい?」など”相談”して調整するようにしています。企業に在籍している以上一生懸命やるけれども、きっちり伝え、大きく穴をあけない事でみんなに迷惑をかけないサイクルを回すようにしています。病気になる前までは「みんながんばってるし」と線を引けなかった自分がいましたが、今は「無理しすぎるほどに仕事をしてはいけない。これ以上迷惑をかけてはいけない」と心がけています。倒れたら元も子もないんですからね。



企業担当者へのメッセージ


ー治療と仕事の両立支援に取り組む企業担当者に伝えたい事はありますか


様々な制度を各企業では揃えられていると思うのですが、罹患経験者として伝えたいのは”制度と風土は両輪だ”という事です。

各種制度や相談窓口を備えるのは大切です。しかし、それを使える風土がないと制度があっても使えない。例えば、よく言われる「利用できない有給休暇」とかですね。制度があっても使いにくい、もしくは使った人が後ろ指を指されるような職場というのはいけません。必要な人がいたら周囲が使う事を後押ししたり、困った時気軽に周りに相談できるような雰囲気があるか。いつ自分が支える側・支えられる側になるか誰もわかりません。みんながそのような意識を持っておくことが大切なのかと思います。

その為にも、従業員同士弱音を吐いたり・相談できる関係性が築けるような企業風土を担当者が率先して作れるように動いたらいいのかなと思います。例えば毎日一言でもいいから声がけしてみるとか。ちょっと気になる雰囲気の人がいたら「何かあったら相談してくださいね」と言っておくとか。いざ何かあった時に声をかけやすくしておいて欲しいです。そうすることで、社員の離職を防ぎ生産性を高めるきっかけにもなると思います。小さな配慮は巡り巡って企業自体に大きなリターンとなって返ってきます。

自分自身も今回病気になり、復職し、継続就労を応援してくれた勤務先に対して当然「恩返ししたい!」という気持ちになりました。「恩返しするために今の自分が出来る事って何だろう」と考え、”体験談を話す”事を始めました。それが、医療サービスを扱う企業にとって新たな付加価値になったと思っています。”罹患社員が今までとは違った観点から自社の医療関連のサービスを伝える”というアクションは結果、企業のPRにもつながっています。それもこれも、周りに感謝して恩返ししようと思う気持ちがあるからこそできるわけで、健常者の時よりも勤務先に守ってもらえたと感じていて、恩返しするまでは辞められないと強く思っています。


2020 年 6月 13日

語り=花木裕介(一般社団法人がんチャレンジャー代表理事 兼 一般企業勤務 )

取材・文=吉田ゆり

写真=ご本人提供


※本記事はがんを経験された個人の方のお話であり、治療等の条件や判断は1人1人異なります。全ての方にあてはまるものではありません。


感想・コメントはこちらへ https://forms.gle/QYnpW2fwbjPYac5k9






がんと働く応援団では、様々な知見を持った専門家が相談を受付けています。

ご相談はこちらから


企業向けライフイベントと仕事の両立支援研修の詳細はこちらから

閲覧数:871回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comentarios


目次1
bottom of page