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生活とがんと私 Vol.18 御園生 啓介さん

更新日:2月10日

長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。




インタビュイープロフィール

御園生 啓介さん

お名前:御園生 啓介さん 

職業:会社員

がん種:悪性脳腫瘍

ステージ:2、3

治療内容:手術(初回)/手術→放射線→化学療法(2回目)/手術→リハビリ(3回目)

副作用:体力低下、だるさ、むくみ、痺れ、疼痛、喉の渇き、便秘、しびれ、乾燥など

治療期間:約1か月間(初回)/約1.5か月間(2回目)/約7か月間(3回目)

復帰時期:退院後約1か月(1回目)/術後半年弱(2回目)/術後半年(3回目)

勤め先:大企業

利用した企業制度:傷病休暇(有給・無給)、年次有給休暇、フレックスタイム(コアタイム無)、在宅勤務、職務の配置転換、慣らし勤務

利用した公的制度:高額療養費制度、限度額適用認定、健康保険組合の付加サービス、医療費控除、障害年金


20歳で脳腫瘍にり患、手術で治療。治療後、ヘルスケア関連企業に入社、各地で営業を経験。30歳で再発、休職して治療。復職後は営業部門のスタッフとして幅広い業務に従事。35歳の時に再々発の疑いで再度手術し、病理検査を経て治療による副作用と判明。

現在もリハビリを継続中。再発以降、AYA世代がんサバイバーを中心としたピアサポートに興味を持つ。現在はAYA GENERATION+group(アヤジェネレーションプラスグループ)、愛称アグタスにて活動中。



目次




御園生さんのがんストーリー


-がんが分かった時のことを教えてください


大学3年生の20歳の時でした。

始めに、風邪のような頭痛の症状が出たのですが、長く続いたので、心配になった両親が一人暮らしをしていた私の下宿先まで訪ねてきました。その時にふらっとして意識が朦朧となり、救急車で搬送された病院で、ほぼがんで間違いないだろうと告げられました。 

搬送先の病院が脳外科で有名な大学病院系列ということもあり、大学病院で手術をすることになりました。野球やアルバイトばかりして呑気な当時20歳の私は実感がありませんでしたが、仲の良い友達には「大変なことになった」と伝えました。何より両親や祖父母が動揺していたことを覚えています。ベッドが空くのを待ち、約2か月後に入院をして、いろいろな検査をして手術することになりました。


-どのような手術を受けられたのですか?


覚醒手術という、手術中に会話が可能な状態を維持し、影響がないか確認しながら患部を切除する手術を受けました。覚醒手術は、今ではスタンダードな治療になっていますが、当時、年齢の若い患者ではまだ珍しい治療のようでした。脳腫瘍って結構厄介な病気なので、取る場所によっては、喋れなくなったり、動けなくなったりしてしまいます。そのため、可能な限りがん細胞でない部分は残しつつ、取れるところは全部取り、再発のリスクを減らす必要がありました。 


-意識がありながら手術を受けるのは、怖いのではないかと思います。


そうですね。それもあって、当時の日本では若い方の手術の症例はまだ少なかったと思います。メンタルテストなども事前にありましたし、この手術を受けた方の中で私は最年少に近く、テレビの取材依頼もあったようで、当時は珍しいと言われました。 


-学校生活への影響は


入院は1か月ほどだったと思いますが、7月にちょうど前期が終わったところだったので、学校生活には影響はありませんでした。それで夏休み期間を実家で療養し、後期からまた大学に通いました。


-大学3年生の9月というと、就職活動への影響はありましたか?

 

価値観や志望する業界に対する意識の変化はかなりありました。

同年代でがんになった人は身近にいないし、文系の学部で学び、それまで野球にしか意識が向いていない人間だったので、突如奈落の底に突き落とされたも同然でした。だからこそ、この経験を活かせる仕事は何だろうと考えるに至り、結果的にヘルスケア関連企業の営業職の存在を知って志望しました。 

高校時代の友人からのメッセージで埋め尽くされた野球ボールは、手術のたびに贈られた大切な品

-就職活動する中で制約はありませんでしたか?


回復が早く、当時は後遺症もなかったので特に感じていませんでした。一方で、既往歴を記載しているからこそ、いつ聞かれるのだろうという不安があり、最終面接で聞かれたことは記憶しています。その後、新卒で現在勤めているヘルスケア関連企業に入社しました。このようなキャリアをもつ私を受け入れていただき、今も働くことができていることで会社にとても運命を感じています。



再発と職場復帰


-再発された時の事を教えてください。


30歳の時、手の動きが微妙に遅い症状や違和感などが現れ、2度目なので自分で何となく気が付きました。10年も経過していたのに、検査に行ったら再発していました。長女が誕生する前日から、手術の為1か月ほど入院し、退院後に再入院して放射線治療を受けました。1~2週間の間、毎日1時間放射線を当てるもので、これも当時最新の放射線治療ということでした。


-治療中に支えになったのは?


慕ってくれる同僚や友達、両親が、毎日のように病院に来てくれたことはうれしかったです。一方で、長女の誕生に立ち会えなかったことは本当に辛く、初めて病気に対して怒りのような感情を感じました。


-反対に気になった事は?


職場では上司に伝えた後、上司から同僚に伝わっていくことは仕方がないと思うのですが、どこまで、どのように伝えたのか、周囲はどう感じたのかが分からず、迷惑をかけてしまった、今後どう接したら良いのか、という思いが強くありました。仕事が好きでしたし、子育てが始まるタイミングでもあったので、本当に復職できるのか毎日不安でモヤモヤして辛かったです。


-復職までのことを教えてください。


当時営業職だったので、すぐに営業としての復職は出来ないことと、スタッフ職に興味があることを上司に伝え、手術後6か月弱経った頃、スタッフ職に異動し、復職しました。


-復職後のどれくらいで仕事に慣れましたか


私が手術を受けた日に長女が生まれたこともあり、退院から復職までの間は家事や育児をして体を慣らしました。復職後は異動により職種が変わり、新たに仕事を覚えなければならないのが大変でした。仕事と体調と家庭の折り合いをつけながら過ごし、それでも新たな業務が楽しく、同僚にも恵まれたため半年以内に仕事へ適応することが出来たと思っています。当時はウィッグを使用していたのですが言及されたことがないので、周囲が気付いていたのか、黙っていただけなのか今でも少し気になります(笑) 


-2回目のり患で変わったことは?


私は以前から、売り上げも当然大事だけれど、いかに患者さんに貢献できるかが重要だと思っていました。また、営業からスタッフ職に変わり、俯瞰して営業職を見れた気がしました。り患経験があること、スタッフ職になり視点が変わったことで、幅広く同業以外の視点や知識を持てるようになりたくて、当時の上司に相談し、勤務後に大学院で学び始めました。社外の人と付き合う機会を得て、勤務先がいかに恵まれている環境なのかも知りました。その頃は勉強に仕事にと充実した日々を過ごしていましたが、大学院も残り半年となった時、突然東京本社へ転勤になりました。



異動と後遺症


-どうして転勤になったのでしょう?


正直わかりません。私自身はもちろんのこと、周囲も驚いたようです。病気になり、営業職を離れ、一線で貢献するのは難しいかも…と思っていたのに、まさかの異動でしたので。これまでの仕事とは全く違うので、出来るのかという不安もありました。ですが、新たなチャレンジができることは嬉しかったです。


-異動後はどのような仕事を?


ある製品の担当になり、これまで行ったことのない病院に訪問したり、営業が使用する資料を作るために多くの社内外関係者等と連携したり…と仕事の幅が広がり、貴重な経験をさせていただきました。そんな風に毎日ドタバタしながら仕事をし、充実した日々を送っていました。2年ほど経ってようやく楽しくなってきた頃に後遺症が出ました。


-どのような後遺症でしたか?


突然汗が出てきたり、フラフラしたりすることがありました。これまでさまざまなデータも見ていたので、もし再発していたら予後が厳しいだろうなと思い覚悟もしました。病院でMRIを撮ったら頭に影が綺麗に映っており、徐々に左半身が麻痺していきました。すぐに休職し、2か月後に2度目の覚醒手術を受けたのですが、不思議と怖さより早く前に進みたいとの気持ちが強く、長時間の手術もそれほど辛くなかったです。

目覚めた時には体の左側の感覚が変わり、車椅子や杖を使用し徐々に自立した生活へ回復していきました。今までない事だったので驚きましたが、自分では何もできない状況で、家族や看護師さん、友人には相当お世話になりました。また、この時に次女の妊娠も知らされたので、またもや出産に立ち会うことができないのか、と家族に申し訳ない気持ちになり、ひどく落ち込みました。

入院中の食事

手術後の病理検査で、再発ではなく、過去の治療により溜まった水が脳を圧迫し、症状が出ていたことが分かりました。そのため、抗がん剤や放射線の治療はなかったのですが、半身麻痺のため、半介護を受けながら少しずつ回復し、リハビリのための病院に転院しました。入院期間も以前より長くて4か月ほどでした。

周囲の医療者や家族は再発でなかったことを喜んでいましたが、私自身はこれまで頑張った治療に伴う副作用やその後遺症に対して簡単に割り切れない思いです。がんに対する直接的な治療はもちろん大事なのですが、その治療によって生じる副作用や晩期障害も仕事や生活に大きな影響があります。

2度目の覚醒手術から5年経過しましたが、今も細かい作業や運動ができないので、自費でのリハビリを探して継続したり、タクシーを利用したりして、見た目ではわかりづらい後遺症と何とか共存して生活しています。言葉にして伝えづらいのですが、家族や会社、同僚には本当に感謝しつつ、個人としては今後のキャリアに悩んでいます。


-休職の間の収入は?


最初は有給を使いました。 私の場合、休暇制度をはじめ会社に多くの補助があり、治療用の貯金もしていたので、治療の費用には大きく困りませんでした。ただ、保険ではまかなえない部分の出費も大きく、今でも大変です。本当に仕事を辞めなくて良かった、必ず何らかの形で会社へ恩返ししたい、と思っています。

お見舞いに来たご家族との穏やかなひととき

-治療を経て価値観の変化はありましたか?


仕事に就いた当初の想いを思い出し、会社を通じて患者さんや社会に貢献したい気持ちに立ち返ったことです。私は医療者でないため直接的な関わりはできませんが、常に意識しています。

また仕事外では、AYA世代がんサバイバー中心のピアサポートをしています。まずは、病気になっても孤独にならないような場を作り、必要なときに支え支え合えるような環境を整えたいと思って微力ながら活動しています。今所属しているアグタスはスタッフもマイペースで活動しているので、私にとっても大事な場の一つです。



り患した方へ


‐り患した方へのメッセージをお願いします。


がんにり患したら、誰もが焦ったり、不安になったりすると思います。特に働き世代ではそうかもしれません。そうした状況でも1人で抱えこまず、孤独にならないよう可能な限り信用できる人に相談できると良いと思います。簡単なことではないと思いますが、そういう場が多くあると良いですよね。会社の同僚でも、友達でも、助けてくれる人はいっぱいいるので、話せる人に聞いてもらう。そういう中で使える制度や工夫の仕方を教えてもらい、“できる範囲で頑張る”という姿勢で、何より自分のことを大切にして欲しいです。り患して20年経過したのにあまりできていない私も偉そうには言えませんが(笑)




支援する方へ


‐両立支援に携わる方へもメッセージをお願いします。


制度を作ることはもちろん大事だし、制度そのものも必要だと思います。

しかし、制度を作ったら終わりではなく、実際に制度を使う人の気持ちや、それが本当に有用かどうか、実際に使う人の目線で検討いただきたいと思います。制度内容の説明だけだと、それを活用する人のことをしっかり見ていないと感じることがあるからです。

特に治療中の方の両立支援は、寄り添い、丁寧に対話をし、その方の気持ちやペースを知ることを大切にして欲しいです。そうやって当事者と対話を重ねることで、本当に実りある制度や支援になると思うので、そのような情報交換の場があると良いですね。当事者間でもそうですが、分かった気にならないというのが大切だと思います。これってがんだけではないとは思いますが。


-会社の同僚として、り患された方へどう接したらいいですか?

あくまで私の場合は、がんとか病気云々関係なく、まずは今まで通りに接してほしいです。それから、「困ったときには連絡してね」とか「助けるから」「味方だよ」みたいな励ましをくれると嬉しいです。反対に人それぞれ個性があるので、「家族がこうだったからこうすると良い」という助言や、健康食品のお勧めなど、押し付けられるのは、善意からだと思えるからこそ、ストレスになります。ワガママですね(笑)


-御園生さんのお話から、り患された方のことを決めつけたりアドバイスしたりするのではなく、丁寧な対話を重ねて本音・本心を知り、寄り添うことの大切さを感じられたのではないでしょうか。

今後のご活躍をお祈りいたします。


2024年2月7日


語り=御園生 啓介

取材=がんと働く応援団 小野 順子

文 =がんと働く応援団 碇 一美

写真=ご本人提供


経験者の声いかがでしたか?

皆様からの感想・応援メッセージお待ちしております

 


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