top of page

生活とがんと私 Vol.15 城 和孝さん

更新日:2022年10月4日


長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。



インタビュイープロフィール


お名前:城 和孝さ 

職 業:会社員

がん種:急性骨髄性白血病

ステージ:不明    

治療内容:化学療法

治療期間:7か月


 


慶応義塾大学経済学部卒。SMBC日興証券岐阜支店長に在任中の50歳の時に、急性骨髄性白血病に罹患。化学療法を経て寛解。現在は名古屋コーポレート・ファイナンス本部 本部長補佐として東海地区の産学連携やIPO支援に携わる。

目次


・城さんのがんストーリー

・自分が出来ることを淡々と行う

・院内留学

・復職へ

・がんり患者に伝えたいメッセージ

・支援をする人へのメッセージ



城さんのがんストーリー


―がんがわかった時のことを教えてください


去年(2021年)の夏にがんがわかりました。ちょうどコロナワクチンを打った後で、熱が下がらず内科で解熱鎮痛剤を処方してもらっていました。一週間たっても熱が引かず、且つ足も腫れ紅斑が出ていたことから内科を再診しました。そこで医師に血液検査をしましょうと言われて血液検査を受けると、血小板が少ないので、1度大きい病院に行く事を勧められました。それから2日後に総合内科でCT撮影や2回目の血液検査をし、何かあったら連絡しますと言われ一旦帰ったのですが、もうその帰り道に「明日血液内科に来てください。」と連絡が入りました。まだその段階では白血病とは言われなかったのですが、自分でも色々な可能性を考えました。血友病とか、貧血症とか 、最悪のケースとしては、白血病もあると考えていました。翌日行った血液内科の先生から「白血病なので、いつから入院しますか。早く入った方がいいですよ。」と言われました。ただ、さすがにその時は仕事もありますし、家族ともきちんと話さなければいけないと考え1日入院を待ってもらいました。 妻と会社の上司には状況を話し、一旦会社に行って荷物の整理をしました。とりあえず戻ってくる気持ちはあるけれど、どうなるかわからないので最悪のことを考えながら、荷物をまとめました。そして翌日の午前中にはもう無菌室の中にいました。


―告知の翌日には入院で慌ただしかったですね


そうですね慌ただしかったし、何が起こっている のかもわかりませんでした。そもそも白血病=死のイメージが世の中的にありますが、私自身は、池江璃花子さんのように治る可能性もあるのではなど、色々なことが頭をよぎりました。実際すぐに検査が始まって物事をじっくり考える余裕はありませんでしたが、もし自分が死んでしまったら家族はどうなるのだろうということは考えました。でも、入院してからはずっと無菌室にいたので、その後は家族と直接会って話すことは出来なくなりました。


―入院生活中にされたことは


とにかく真っ先に情報を収集しようと思いました。もし私が死んだら妻が3人の子供を養っていけるかどうかが一番気になったので、まだ会社のイントラネットに繋げるうちに会社の制度がどうなっているのか調べました。また、病気が発覚する直前に私の支店でワークライフバランス審査を受けていたので、積立有給が何日あって、休職にあたりいつまでは有給が使えるかなどの制度が頭に入っていたので自分の取得計画は立てやすかったです。それから自身の蓄え、加入している保険を調べ、そのあとに仕事の引継ぎにこれだけは必要だと考えたものの準備をしました。


―家族にはどのように話しましたか


妻だけに白血病だと伝えました。その為、病名を知らない子供たちと、家族を支える妻の両方の精神面が心配でしたが、私は入院中で寄り添うことが出来ませんでした。


―お子さんに知らせたのはいつですか


入院後に妻から子供に伝えてもらいました。私からは体調を崩したくらいの話をしていたので、伝えた時はショックを受けたようでしたが、子供3人は妻に頑張ると言ってくれたそうです。


―治療について教えてください


急性白血病なので寛解導入を1回、地固め療法を3回行うのが基本で、それがだめなら骨髄移植になるのですが、今は事前に遺伝子検査をして、移植か化学療法で治療できそうか判別できることが多いようです。

私は遺伝子検査で予後良好タイプだったので、寛解導入療法1回、地固め療法3回の計4クールが標準療法となりました。

通常の治療では1回の寛解導入で60%ほどの人が完全寛解するのですが、実際には1回目で完全寛解に達成せずに2度目の寛解導入治療に入りました。基本的に楽観的な私にとって最も死を感じた瞬間でした。その後、2回目の寛解導入治療で何とか完全寛解となり気が楽になったことを覚えています。

遺伝子の型がCBF(Core binding factor)タイプだったので、60%ぐらいの人が化学療法でよくなり、40%の人は再発すると言われています。2回目の治療後の数値をみて主治医からの提案もあり再発リスクを抑えるために当時行われていた治験に参加することにしました。

その内容は、完全寛解後の地固め療法として標準治療であるシタラビン大量療法の際に比較的少量のマイロターグ(抗体薬物複合体)を追加投与するものです。すでに海外で行われている化学療法を日本に導入するか臨床治験するもので、その対象者になれたことも運が良かったと思っています。将来、少しでも治癒する可能性を高くすることに寄与できていれば嬉しいですね。


抗がん剤による骨髄抑制は当然あるのですが、治験のせいか通常の抗がん剤治療より副作用が強く、投与後2週間程度で白血球ゼロとなりました。その状況が1週間くらい続くため発熱性好中球減少症(FN)を毎回起こしてしまいました。特に2回目は40度の熱が続き、意識も混濁して敗血症状態になっていたのだと思います。


―それはとても危なかったということですか


そうですね。CRP(C反応性たんぱく:体内で炎症発生時に血液中で上昇するたんぱく質)も高く生命の危機が訪れていたと思います。それで3回目はシタラビンを6割程度に減らされたのですが、それでも熱が出て、ほほに腫れが出来、それが広がりお岩さんのような顔になりました。

実は地固め導入では白血病の原因になる遺伝子がもやもやと存在してなかなか0にならず不安だったのですが、最後の5クール目の治療でようやく「検出せず」となりホッとしました。結局、1クール40日間前後の治療を5回、途中で1週間の退院などもはさみ212日間と半年以上の闘病生活となりました。今は治療を終了し経過観測期間に入り、2か月に一度の血液検査によるモニタリングを受けています。



自分が出来ることを淡々と行う


―生活面で気をつけていたことは何ですか?


治療中は、とにかく感染対策が大事なので、歯を磨く、手を洗う、歩けるうちに歩いて筋力を保つなど、自分が出来ることを淡々と行いました。小さなことですが、ウィルスに感染するリスクを避ける為と、筋力低下による転倒で、頭を打ち血液が止まらなくなったりする致命傷を避ける為です。白血病患者の場合は血小板がほぼゼロなので、出血すると血液が止まらなくなり、それが理由で亡くなる人がいます。


院内留学


―入院中は治療の為の生活に専念されていたのですね。


いいえ。入院生活になれると、次第に私は院内留学という考えをもつようになりました。


―院内留学ですか?


はい。私の考えた言葉ですが病院の院に留学 (院内留学)するということです。がんなので「キャンサーロスト」はありますが、入院生活を自分の中でポジティブに「キャンサーギフト」と捉えて、いろいろな事を蓄えようと考えました。

白血病の治療は 1クールが40日間です。その中で、抗がん剤を打つ最初の10日間は気持ちが悪いのですが、次の10日間は吐き気が大体治まってきます。ちょうどこの期間は白血球数が下がってきて、これから熱が出そうだと、なんとなくわかるのですが結構暇なのです。そのあと熱がどっとでるのが10日間ぐらいあって、最後の10日間は嵐が過ぎた後のリカバーで、外に出る体力が回復するのを待つという時間の繰り返しです。つまり、トータル40日間のうち、20日間は辛いけど、20日間は時間があります。その20日間を勉強の時間にしようと考えました。

そこで、始めは英語の勉強をしました。今はスマホなどでもTOEICの勉強が出来ますからね。もう一点は、やはり自分の病気についてもっと知りたかったので、知識を掘り下げていきました。そうすると、薬理学とか、病理学みたいな話に始まり、がんなので分子生物学を調べていくと、有機化学というように、どんどん細かい話に興味を持ち始め、理系分野の本を買っては読む、を繰り返していました。証券会社勤めということもあり、理系のトレンドや、科学と産業について、そしてウェルビーイングについても勉強しました


―この経験は次のお仕事にどうつながりましたか


知識を広げることで、自分の仕事だけでなく、社会をより良くするためには新陳代謝が必要だと考えました。白血病は、血液の新陳代謝がうまく出来なくなる事が問題なのですが、社会に置き換えても、ただ大きくなるだけではなく、新しいものを取り入れるという新陳代謝が大事ですよね。退院できたらそういったことに取り組みたいと考え、入院生活の後半はアウトプットとネットワークづくり、政府の方針などを調べました。

復帰時も、入院中に準備してこのようなネットワーキングを構築したことを根拠にやりたい仕事を話すことができました。これまでの積み重ねや信用が必要なのですが、入院時でもそれを積み重ねることはできると思います。


―他にも何か変わったことはありましたか


そうですね。前々任の山形支店でも高校生向けの支援プログラムなどのソーシャルの分野に携わってきましたが、そのころは仕事が生活の8割ぐらいを占めていていました。その割合が変わりました。きっかけは、先ほどお話した岐阜県のワークライフバランスの審査を受けていた際、審査委員長である渥美由喜さん(著書『イクメンで行こう!―育児も仕事も充実させる生き方 』)に、がんになったことを機会にワークライフソーシャルのバランスをとることを勧められたことです。渥美先生に「立場のある人が社会復帰したとき、その経験を踏まえて社会に訴えかけることは大事な使命です」と言われ、その後の入院生活ではワークがない分をソーシャルのふり幅をひろげることに努めました。


―ふり幅をひろげるとは


自身のポジションを明らかにしてどんな事を考えているか発信することで、共感していただく方とつながり世界を広げていくことです。いまは入院中でもWEBの世界で誰とでもつながることができます。他者との信用関係がベースとなりますが、自分の価値観にとって何が中核なのかを顧みて伝えることが必要だと思っています。


復職へ


―復職までの流れはどうでしたか


4月末 に復職可能と許可が出たのですが、結果的に5月の終わりに復職になりました。異動の時期からずれていたこともあり、どこの職場に戻りたいか、何をしたいのかを元の上司だった役員をはじめとした関係者の方々に聞いてもらって現職での復職になりました。現在は、東海地区の産学連携やIPO(新規株式公開)の支援をしています。社会復帰後は治療した病院があり、家族もいる愛知県で勤務したい要望を会社に受け入れてもらい感謝しています。ただ、これは入院中にあらゆる事態を想定して、いろいろな動きをしていたから実現したと思っています。


―復職してからの時間の使い方は変わりましたか


1か月余裕があったので体調は大丈夫でしたが、テレワークを使って残業せずに仕事をしています。その為にはいかに無駄を省くか、最短距離、最大出力で仕事をすることを考えています。今の仕事のスタイルにして気が付いたのは、こちらに伝えるべきことがあって、相手に聞くべきニーズがあればリモートでも十分コミュニケーションが取れるという事です。また、家族との時間もとれるようになりました。


がん罹患者に伝えたいメッセージ