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生活とがんと私 Vol.12 久田邦博さん


長寿大国日本。生涯を通して2人に1人ががんを経験すると言われ

そのうち3人に1人は就労している年齢でがんを見つけています。

いざ自分がなった時、そして周囲の誰かがなった時

慌てず対処するためには、経験者の話に耳を傾けるのが一番です。

”がん=死”というイメージを払拭する為に様々な体験談をお届けしていきます。



インタビュイープロフィール



お名前 :久田邦博さん

職業  :講師、研修デザイナー

がん種 :慢性骨髄性白血病

ステージ:慢性期

治療期間:20年(2001年9月から現在)



 






名城大学薬学部卒業 エーザイ株式会社入社 医薬情報担当者(MR)38歳で白血病を発病。発病後の異動で研修を担当したことにより、人材育成のプロを目指す。がん経験とコミュニケーションスキルを合わせて医療現場でコーチングやファシリテーションを指導。2019年しあわせです感謝グループ設立


目次


・白血病を受け入れるまで

・がんのことを伝えてから家族になった気がする

・上司も驚いた周りの人への報告

・治療と仕事の両立

・研修のプロを目指すことに

・「がんなのに」という偏見に気づいてほしい

・企業とがん罹患者へのメッセージ



白血病を受け入れるまで


―病気のことを教えてください。罹患したのはいつ頃ですか。


がんの疑いがついたのは2001年7月11日か12日です。MRという仕事で課長職に上がり、静岡から関東に異動した頃で、もともと血圧が高かったので転勤先で血圧の薬を出してもらうために病院に受診し、その際血液検査をしました。すると、病院を出てしばらくすると電話が鳴り「白血球の値が高いため戻ってきて欲しい」と連絡を受けました。病院に戻ると「白血球が3万近いから血液内科の医師がいる病院に紹介状を書く」と言われました。それで、その夜にインターネットで白血球数について検索を始め、ある程度可能性のある病名を突き止めました。


―慢性骨髄性白血病の可能性があるとわかった時にどう思いましたか。


「最悪の場合はこれだな。でも自分は絶対に違う」と思いました。その翌日病院に行って、検査したらやっぱり白血球数が3万近い値で、医師に何だと思っているかと聞かれました。そこで、否定して欲しかったので「慢性骨髄性白血病じゃないでしょうか」と答えたら、医師に「たぶんそうでしょう」と告知を受けました。それから骨髄穿刺をして一か月後の8月31日に病名が確定しました。


―確定したときはどう思いましたか。


驚きはありませんでした。なぜなら7月末からありとあらゆる情報を収集し、治療法と可能性について調べていたからです。そして生き方を決め、医師と相談し、治療法を決定しました。


―どういう治療法があって、なにを選択したいのか頭の中に描けていたのですね。

地獄のような苦しみを経てですが。


―病気のことはすぐ受け入れられましたか。


頭ではわかっていたのですが、慢性骨髄性白血病を否定したい自分もいました。なので仕事で忙しいときはいいですが休みの時がつらかったです。 ある時、子供が主人公の映画を観たのですが、途中で涙が止まらなくなりました。私には10歳、8歳、6歳、4歳の男の子がいたので、もう子供の成長は見られないと思いました。治療方法も今のような分子標的薬はなく、当時の生存期間の中央値は大体3年半でした。移植を希望してもドナーが見つからない状態でしたし、インターフェロンで治療した場合でも5年以上の長期生存が30パーセントの状態でした。だから助からないと思いました。この時、人生において最も大切な存在は子供、家族だとはっきり認識しました。

―治療法はどうやって選択しましたか。


その当時の治療法は移植かインターフェロンでした。移植は7割が生存。でも3割は1年以内に亡くなっていました。インターフェロンは3割が長期生存の可能性がありました。二つの生存曲線を見ながら迷っていたので、医師はどのような根拠で治療法を勧めるか調べました。そうしたら長く生きたい人は骨髄移植、確実に短く生きたい人はインターフェロンという文献が出てきました。


―厳しい選択ですね。


それで自分に問いかけました。「何年確実に生きたいか?」出した答えは10年間生きられれば長男が20歳になるから、 そうすればバトンタッチできると考え、10年間生きられる可能性がインターフェロンの方が高いと自分で決定し、その後医師と話し合って選択しました。その半年後に新薬が出ました。だから今生きています。私より前に慢性骨髄性白血病になった人は結構亡くなっていましたが、後からなった人は生存率がまったく変わっています。



がんのことを伝えてから家族になった気がする


―家族にはどのように伝えましたか。


8月31日に診断名がついて、家に戻って家内に話をしたら、黙ってしまいました。その後「くよくよしない方がいい」とあっさりといわれ、そのあと口に出したのが「やりたいことをやった方がいいよ。だから会社人間だったけどもういいでしょ。仕事はやめて自分のやりたいこと、行きたいところを優先しなさい。ただ今までは家族を顧みず活動して来たけど、これからは自分一人で行動することは禁止だよ」そう家内が言ったときに、僕は半年で死ぬと考えていると悟りました。でも3年半くらいは生きると伝えたら、がらっと表情が変わって、家内は「治療するよね。お金かかるよね。だったら、クビにならないでよね」と言うことが180度変わりました。 ただ仕事に関しては助かりました。


―助かったというのはどういうことですか。


この言葉で仕事は辞めないと決めることができました。よくアンケートで3割の方が退職して、その中でも6割の方が治療を始まる前に、辞表を出すと聞きますが、私が登壇するセミナーでは重要な決断は告知後すぐにしないように伝えています。妻の言葉で辞めないと決めて、会社の就業規則、会社をクビになる要件を調べました。その当時は病気の人が2年間連続休職すれば退職勧告ができましたが、今は累計で2年です。


―息子さんには伝えましたか。


夫婦で相談して、その時息子たちには伝えないと決めました。それから子供達には10年たってからがんのことを伝えました。


―お子さんの成長タイミングを見計らっていたのですか。


いいえ。長男が通っている大学の地域で講演会に出ることになったからです。講演会に出ると新聞などに紹介されるかもしれない。外から聞くのは嫌だろうと思って伝えました。

次男はインターネット検索で知り、四男には伝えていません。でも2019年に新聞で私の生き方が紹介された記事を子供たちが読んで、今はみんな知っています。私に対する見方が変わったと伝えてくれました。


―お子さんに言った後に気持ちや、家族との関係などは変わりましたか。



寄り添い方が変わったように感じています。月に一回くらい息子たちと飲み会をしていたのですが、それに積極的に参加してくれるようになったと思います。私の想いや、なぜこういう活動をしているのかなどもわかってくれるようになったので、がんのことを伝えてから家族になったような気がします。だから伝えなかった10年間のことを後悔しています。私が講演会で話すときは、家族への伝え方は工夫しなくてはいけないけど、家族の中で秘密があるとギクシャクするから親ががんになった時は絶対伝えなきゃいけないと言っています。



上司も驚いた周りの人への報告


―会社には報告されましたか。


確定診断前に上司に話しました。検査のために休みを取らなくてはいけないと思いましたし、表情にも出ると考え上司に伝えました。

―上司以外にも伝えましたか。


モバイルオフィスだったので、どこに誰が座って出社しているかも分からないような状態でした。だから入院する前に関係者全員に「白血病になったので明日から休みます」とメールを打ちました。流石にこれには上司も驚いていました。でもそうでもして情報をシェアしないと組織が動かなくなって迷惑をかけてしまうと考え、自分に起きていることは周りに全部伝えました。


―伝えることに対しての不安はありませんでしたか。


顧客と同僚に迷惑をかけるほうが不安でした。それ以外に開示することに対しての不安は何もなかったです。もう出世争いからも脱落して、サラリーマン人生は終わったと思っていました。だから情報をシェアしないことで起きるトラブルは避けようと思い、それだけを考えて入院の準備をしました。

―自己保身ではなくて周りのことを考えてなんですね。


自己保身もあるかもしれません。入院中にトラブルになったら大変じゃないですか。伝えておけば、後は考えてくださいって言えるので。

―お仕事の復帰はどうやってされましたか。


2週間の入院中はメールで仕事のサポートを続け、自宅で1週間静養しました。そして上司には来週から復帰しますと伝え、3週間後には病院で医師の先生に薬の説明をする仕事に戻りました。

治療と仕事の両立


―薬の副作用にはどのようなものがありましたか。


インターフェロンは、毎日二日酔いのような疲労感と皮膚のかゆみがあり、階段を上るのが大変でした。それを自分で毎日注射するのが精神的にきつかったです。


―治療と仕事の両立をどのようにしましたか。


私の場合仕事が外勤なので、上司や周りの人からどういう風にどのような治療をしているか逆に心配されました。私は朝注射を打つので、朝オフィスへの出社が辛いという状況を伝えました。そうしたら出社は10時くらいでいいので、重要な顧客との関係を切らさないようにして欲しいと言われました。私もそこは意識して仕事していました。医師からは色々やめるように言われた事もあったのですが、飲み会にも参加していました。もちろん酒は飲みませんでしたが。結果、復帰後に営業成績を上げることもできました。


―効率化を図ったということですね。


そうですね。効率化を図れば、働き方改革ってできるじゃないかって思っていました。

―周りの配慮も引き出しながら、自分の働ける環境を整えて行ったのですね。

配慮というか、全て任されたという感じです。本社側はノータッチだったので、休みの取り方は全部自分で調べました。その後本社部門の名古屋駐在で内勤になった時、薬が新薬に変わり、処方の為2週間に一回外来に行かないといけなくなりました。でもこれで有給休暇を消化したくなくて人事に連絡したら、課長職だからコアタイムを守れば自由だと言ってもらえました。周りの理解を得るために同僚には「人事と話して2週間に一回病院に行くことになった」と伝えて了解を得ました。


―新薬に変わって副作用はありませんでしたか。


グリベックという分子標的薬だったのですが、疲労感、下痢、顔がはれぼったくなる、皮疹が出やすくなるという副作用がありました。皮膚が薄くなって、ぶつけただけで皮膚がはがれてしまうので、グリベックを使う人は絆創膏を持ち歩いている人が多いですね。


―新たな副作用と仕事を両立するために何か工夫したことはありますか。

一番怖かったのは下痢だったので、トイレの場所を確認しトイレは早めに行くようにしていました。10年近くそれで苦しんでいましたが、あるときSNSに苦しいと書いたら薬剤師仲間が沢山コメントをくれて、ある整腸剤を飲むことを提案してくれて、そのお陰で下痢をコントロールできるようになりました。


―薬剤師が薬を勧めないのはなぜですか。


薬剤師は患者さんが持参する処方箋とおくすり手帳、その薬局を利用した過去の記録しか基本的に情報がないので、何の病気で薬が出ているのかがわからず処方箋から推定していしています。そのため質問をするのですが、病院で話した内容と同じになるためしっかりお話し頂けないケースがあります。薬剤師は薬を勧めるというよりも、処方せんの記載が正しいか(飲み方、用量、回数等)をチェックしています。そして、調剤された薬も薬剤師は薬をお渡しするまでに2回はチェックしています。


―復帰して悩んだ事はなかったですか。


復帰後、名古屋に戻してもらいましたが、仲良しだった名古屋の人達の態度が変わってしまったのが最初は嫌でした。飲み会の話になっても私が傍へ行くと話題が急に変わり、変な気遣いがすごく嫌でした。名古屋では、がんのことをそんなに自らは開示してなかったので、いろいろな噂が立っていたようです。


―その誤解の渦の中に入った時、どうやって自分を奮い立たせましたか。


誤解に対しては違うと言うだけでした。病気を理解しないことによって、偏見が生まれていたのです。会社に対しては、病気に負けないように名古屋に帰していただいたことに感謝していましたし、クビになりたくないと思っていたので、次なるサバイバル戦術を自分なりに立てました。

研修のプロを目指すことに


―どのような戦略ですか。


地域密着と能力開発です。万が一会社を辞めても生きていける能力を身につけたいと考え、プロの研修講師になることを目指し始めました。


―なぜプロの研修講師を目指そうと考えたのですか。

そのころに学術部門に異動になり、研修を担当していたからです。でも研修とそれまで培った薬のプレゼンテーションは全然違いました。だからまた一からスキルを勉強しないといけないと考えました。

―どのようなことを勉強しましたか。


ちょうどキャリアカウンセリングが流行りだして、最初に飛びつきました。その中で心に響いたのが、ポータブルスキルという言葉でした。会社の中の知識を持っていても、外に行ったら何も使えない。けれどもプレゼンテーションとか質問のスキルとか傾聴のスキルっていうのは身につければどこでも使えるスキルだし、教育のスキルは持ち出し可能だと思いました。それで自分に自己投資を始め、コミュニケーションスキルを身につけました。その指導方法として教育ファシリテーションを磨きました。それを社内に広げて、研修改革を始めました。


―具体的にどのような行動をとりましたか。


人材育成で評判が良い外資系企業をベンチマーキングし、どのような研修をしているかを調べて、それを自分で学びに行って業務の中に取り入れました。本部の研修方法は講義一辺倒でした。当時の支店長は「これとこれだけ守ってくればあとはやりたいようにやれ、責任を全部取ってやるから」と言ってくれました。


―上司と良い関係が出来ていたのですね。


支店長が変わるたびに大体半年かかりました。学術部門はあまり期待されていないようでした。しかし、上司の発言から頭の中で描いている営業戦術を把握し、戦術を研修プログラムやスライドで具体的に形にし、これではないですかと提案していたら、そのうちどんどん仕事を振ってくれるようになりました。確実に結果を残していき、関係が変わったのが毎回半年後です。


―そこまで頑張り続けられたのは、家族の存在ですか。

この時は自己実現の欲求です。以前と同じように認められたと思ったときに、これからは自分のやりたいことを目指したいと思いました。

―どのようなことですか。


研修のプロとして全国で研修講演することです。始めは、僕の講演を聞いた薬剤師仲間が感動しSNSに書いたのが始まりですが、それが拡散され、講演に行くとまたSNSに投稿がアップされ、そのうち日本全国から研修に呼ばれ、自分なりに作った研修講演会をするようになりました。そしてそれが会社のビジネスに役立つようになりました。



―詳しく聞かせてください。


顧客である病院や企業には研修したいけど予算がないとか、講師探すのが面倒という場合があります。製薬会社社員が研修講師であると営業担当に相談するだけで話が進むため、予算面や講師調整の負荷がなくなるわけです。優秀な営業担当はそれを話題にビジネスの話を進めていきました。それで営業の成績は上がると社内SNSに投稿してもらいました。成果に繋がるレポートは本部スタッフの間で話題になります。段々私の研修の話が本社にまで響いていくようになりました。本社に異動したときは上司から「日本全国で研修していればいいよ。活動を利用してこっちがビジネスするから」って言われました。そこからは2年間くらいバラ色の人生でしたね。好きなところに行って旅していいわけですから。


―会社は久田さんの活動をどうやってビジネスにしたのですか。

本社では顧客である企業の社長と交渉する部門に所属していました。どこに行っても顧客から私の名前が出るため不思議がっていました。ある日、人脈を聞かれ、門前払いされる社長へのアポイントが取れるかと聞かれました。上司の目の前でその薬局企業の研修担当と連絡を取り社長に研修を提案するためにアポイントをお願いすると、私が行くのならとすぐ日程が決まりました。連続して別の企業でも同じようにアポイントを実現すると、それまで誰が行っても門前払いだっただけに、上司が感動してもっと知名度を広めて、顧客とのネットワークを広げるように言われました。


―研修できるプロに成長したことで、企業もいいビジネスが出来るようになったのですね。研修ではどのようなことを話していたのですか。


患者としてはがん告知までの心の動きです。医療現場はがんを治すことしか考えないですが、患者は人生の変化が苦しみになっていることを話しました。それから医療現場に求める事として、インターフェロン注射の体験から、お腹に注射器を指すような事は恐怖なので、その時は看護師がどのような対応をしたらいいかをコミュニケーションスキルをセットにして伝えました。当時はがん患者が伝える研修はあまりなかったですし、プレゼンテーションスキルや教育のスキルが身についていたので、病院側の人がとり入れやすかったのだと思います。 薬剤師に向けてはアレンジして服薬指導コミュニケーション研修をしました。


―現場として必要なスキルにつながる話し方ができていたということですね。

そうですね。企業の中の研修部門では結果を出さないと評価されませんので、かならずアウトカムを念頭においた研修づくりをしていたのが理由だと思います。


「がんなのに」という偏見に気づいてほしい


―講演活動と研修デザイナーの活動で伝えたいメッセージを教えてください。


がんになっても「最後まで自分らしく生きられる」ことを伝えたいと思っています。がんは、もしかしたら私たちの命を短くするかもしれない。でも生き方そのものは縛ってきません。だから、生き方は自分が決められると気づいて欲しいです。私が活動をする理由の一つとして、そのモデルになりたいと思っています。がんなのにこの人何やっているのだろう。「がんなのに」と思うこと自身に偏見があることに気付いてもらいたい。それが伝えたいメッセージです。


―そう思ったきっかけはなんですか。


OCT(over cancer together)の第1回セミナーで、自分の言葉を社会に出して訴えることを教えてもらったのですが、その時に社会の偏見もあるけど自分自身にも偏見があると気がついたのがきっかけです。

―伝えたいと思うのはなぜですか


使命感です。死を意識したときの気づきを社会に伝えていく事が使命だと思っています。そのために生かされていると感じることが良くあります。




企業とがん罹患者へのメッセージ


―両立支援に力を入れようと思っている企業や、管理職、上司等に対してのアドバイスをお願いします。


まずは病気についてある程度学んでほしいです。具体的に言うと、1番目にがん情報サービスの一般向け情報と副作用について学んでもらえると、がん罹患者と共通の用語で話せるようになります。2番目にがんになった本人と話して、今どういう状態なのか、どうしたいのかを聞いてほしいです。私も表面上は治ったように見えて、単身赴任したことがあります。表面上で判断されたことはショックでした。上司の責任かもしれませんが、ちゃんとヒアリングしてその人のことを理解してほしいです。3番目は過度な配慮はいらないってことです。


―罹患者に対してのアドバイスは。

がんになってもできることはいっぱい残っています。副作用や後遺症でできなくなることはあるけど、それは自分の中の何パーセントでしょうか?もし20パーセントだったら、出来ることは80パーセント残っているので、そこを大切にしてほしいです。10年生存できるなら、くよくよしても10年。思いっきり自分らしくしても10年です。10年たった時どちらを喜びに感じますか?私は18年前に180度考え方が変わって、自己投資をし始めたから今があります。あの時それをしなかったら、今、日陰で生きていたかもしれない。そういう自分もいたと思います。だからがんになろうが、どんな困難があろうが、自分の未来は自分で作っていくのだということを伝えていきたいですし、そういうことを学んできました。結局、がんからの脱却と自己実現は一緒だと思います。その為に働き続ける目標を持つこと事が大切です。がんになると30代、40代、50代でそれに向き合えるチャンスなので、「働くって自分にとってどういうことなのか」「人生の夢とかはなにか」それを考えるのに、悩み苦しむ期間も必要です。最後にがんの前例が会社にない人の場合ですが、まずは、相談できるところを探すことを勧めます。がん相談支援センターは無料ですから、一回顔を出すとよいと思います。

ありがとうございました。がんになっても「自分らしく生きられることを伝えたい」と使命感を持って、活動されている久田さんの逞しい生き方に元気をいただきました。


2021 年 11月15日

語り=久田邦博

取材=吉田ゆり

文 =小野順子

写真=ご本人提供


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